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【没後150年】横井小楠の「富国強兵」と現代日本 〜かくの如きの貧弱国となりたること誠に道理なり〜

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 いま日本は「弱小国」に成り果てている。
 
 かつては世界第二位の経済大国で先進国であったのに、今や中国にも抜かれアジアNo.1ですらない。どうしてこんな貧弱国に成り果ててしまったのだろうか。その答えのヒントを、今から150年前に亡くなった幕末の思想家、横井小楠が教えてくれる。
 
 一般に「富国強兵」と言うと、「日本という国を強くするために、国民一人ひとりの幸福のようなものはある程度我慢しましょう」という思想だと理解される。
 
 幕末の思想家、横井小楠も富国強兵を唱えた一人だが、小楠の富国強兵は少し違った。
 

富国と弱者への視点

  小楠の思想は“先進性”と“昔風”を併せ持っている。外国と対峙するためには、昔ながらの兵隊の訓練などではなく海軍の増強が必要であると説く先進性を見せる一方で、儒学者であり朱子学から出発している小楠は、理想の政治として古代中国の「堯舜三代の治」を説く古風な一面も持っている。小楠の面白いところは、堯舜三代の治のような旧い道徳を服膺しながら、同時に西洋の進歩的な側面を称賛しているところだ。
 
 小楠にとって「富国強兵」とは何であったろうか。それはもちろん、次々とやって来る外国に勝てるくらいに日本を強くすることだ。だがそれは当時の他の人々も考えていたことだ。海軍重視という思想も当時としては先進的な考えだったが、小楠だけが考えついていたことというわけでもない。
 
 富国強兵を目指しつつも、ただ「日本という国を強くするために、国民一人ひとりのある程度の我慢は已むなし」などとしないところに小楠の思想の特徴がある。
 
 例えば日本国内を見ると、
本邦は中古以来兵乱相尋ぐの世となり、王室微にして、諸侯群国に割拠し、各疆域を守り互に攻伐を事とすれば、生民を視る事草芥の如し(「(天)富国論」)
として、武士たちはみな自分たちのことばかり考えて庶民のことを少しも考えていない、と批判する。
 
 あくまでも「仁政」を理想としている小楠は
俄羅斯を初め、各国多くは文武の学校は勿論、病院・幼院・唖聾院等を設け、政教悉く倫理によつて生民の為にするに急ならざるはなし、殆三代の治教に符合するに至る(「(天)富国論」)
とさえ言う。学校だけでなく、病院、幼稚園、聾唖院など、弱者のための施設を作っている西洋の国のほうがよっぽど古代中国の理想の政治の形に近いとまで言っている。
 
 こうした小楠の弱者への視点は、「富国」とは何か、ということをあらためて考えさせる。
 
 小楠は「学校」についてたくさん意見をしているが、これも「富国」のためには人を育てることが大切だ、という考え方から来ている。
凡天下国家を治るに、治乱共に人を得るに非ざれば難し。(「(人)士道」)
と言い、「人材を得る」ことに強い関心がある。しかし、その「教育」についても、ただ有能な人材を育てればいい、という考えではない。
 
政教已に地を払ふて、韜鈐に長ずるを明主とし謀略に宜きを良臣とせる時世となる故に、(中略)帷幄参謀の名臣悉皆徳川御一家の基業盛大固定に心志を尽して、曾て天下生霊を以て念とする事なし。(「(天)富国論」)
と言う。政治を行う人間の中に兵法に長けていたり謀略に精通している“有能な”人間がいても、結局は国民のためになっていない、これが「国の治りがたき所以」だと厳しく批判する。
 
 この「有能な人間ばかりを尊ぶ時世」というのは、現代にも通じるところがある。
 
 現代の政治家に聞いても、「わたくしどもは教育に力を入れています。次代の日本を担う優秀な人材の育成に力を注いでいます」と言うだろう。そこで考えられているのは、「有能」「有用」な人間、すなわち国や企業にとって「役に立つ」人間だ。
 
 しかし小楠の視点は少し違う。
 

かくの如きの貧弱国になりたること誠に道理なり

 例えば、当時結婚できずに一生を終えることが多かった武家の次男以下の男性たちについてこう言う。
 
士たる者の弟次男のごときは、年比となりても妻を迎へざるは天下一同武家の制なれば、誰人異とせざれ共、壮より老に至る迄夫婦父子の大倫を廃して知る事を得ざる故、是が為に不行跡に至る者もまた多し。最可憐の至なり。当今富国強兵を事とすべき時勢なれば、此の輩をして各其の用に充べきなれば、先づ其の才力の長短によりて是に多少の俸禄を与へ、差当る衣食の急を免かれしめ、其の用る処に随て是に居所を与ふ(「(天)富国論」)
 
 夫婦父子の関係を重視する儒家の立場から言えば、人生でそうした関係を得られなければ倫理が解らないのは当たり前であり、可哀想だ、ということになる。そして「富国強兵」と言うならば、こうした「不良」たちにこそ、その長所を見つけて仕事に就かせてあげるべきではないか、と説く。
 
 また、『沼山対話』中にある次のような一文は、まるで現代の日本について言っているかのようである。
 
民工職につくこと不叶、なすべき手業もなく、無余義手を空して日を送ること憐むべき次第なり。全体百人の民口あらば其の七十人は農業を事とすべく、其の余三十人は老幼或は貧民にて農業をなすこと叶はず、徒に余力を空し、全き游民となることなり。今日本全国十の三は游民なれば、如此の貧弱国となりたること誠に道理なり。
 
 国は「氷河期」に怒濤の「募集ゼロ」と「お祈りメール」によって大量の氷河期世代の人たちを非正規、無職、引き籠もりに追いやっておきながら、今頃になって働き手が足りないので外国人を募集する、などと言っている。小楠に言わせれば「かくの如きの貧弱国となりたること誠に道理なり」という話である。
 
 今の日本のように、国民を大切にしないで強い日本を取り戻すなどというのは笑止千万、甚だ本末顛倒と言うべきである。先ず国民の生活や幸福を大事にすること、それこそが小楠の「富国」である。国民の幸福と富国は両立できない話ではないのである。
  

顧みられる価値のある小楠の思想

 現代の政治家たちも「富国」を望んでいる。中国や韓国に負けない「富国強兵」を。だがそれは国民の生活や幸せを犠牲にした「富国」である。
 
 昨年2018年は「明治150年」のイベントがたくさんあって、明治の風を尊ぶ雰囲気があったが、それなら今年2019年に歿後150年を迎える幕末の思想家、横井小楠の「富国」についても、もっと考えてほしい。
 
官府其の富を群黎に散じ、窮を救ひ孤を恤み刑罰を省き税斂を薄し、教ゆるに孝悌の義を以てせば、下も好生の徳に懐いて上を仰ぐ事は父母の如くなるに至らば、教化駸かに行はれて何事をか為すべからざらん。推て天下に及ぼすも亦難からざるべし。(「(天)富国論」)
 
 この記事では省略しているが、小楠は具体的な方策を示している。決して理想論ではない。「天下に及ぼすことも決して難しいことではないのだ」という小楠の声に耳を傾けてほしい。
 
 勝海舟にも評価されながら、現代では、同時代の思想家とくらべて今ひとつ知名度が低い小楠。だが、近年では「公共」概念の先駆け、地球規模の平和について考えた先駆者としても脚光を浴び始めている。
 
 小楠が京都寺町丸太町で兇刃に斃れてから今日でちょうど150年。横井小楠の先駆的で視野の広い思想は、現代においてもっと顧みられる価値がある。
 
※文中引用は特別な註記がないかぎり『国是三論』から
 
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