漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

子どもたちに漢字の書き方を教える必要はあるか

 
 高校生に、今度漢字のテストがあるから漢字を教えてくれと頼まれ教えた。私自身高校を卒業してから久しいので高校の漢字レベルがどの程度のものなのか忘れていたが、見たらかなり難しい漢字ばかりで驚いた。その高校生は漢字は苦手で小学校レベルでも怪しかった。
 
 子どもたちに漢字の書き方を教える必要はあるのか。ここ数年、その疑問がずっと頭の中を過っている。
 
 自分自身を顧みれば、直近一年間で仕事では文字を書いていない。ハード、ソフトのキーボードではたくさん入力しているが、手書きでは一文字も書いていない。仕事以外の日常生活でもここ数年、文字を手書きした記憶はほとんどない。私の家にはボールペンもシャーペンもサインペンも万年筆も無い。今の子どもたちが大人になった時に、仕事でも日常生活でも漢字を手で書く機会はあるのだろうか?
 
 漢字を教えることが不要だとは思っていない。漢字を理解する力は現代の日本社会においても充分に必要な力だ。だが、漢字を「知る・理解する」ということと「手で書ける」ということは違うことだ。昔から「漢字の読み書き」と言うが、これは「読むことと書くこと」ではなく「読むことと表記すること」であるはずだ。文字を読むことの意味は昔も今も変わっていないが、「書く」の意味は大きく変わった。文字を「書く」ということは何百年何千年もの間、筆やペンなどを持って「手で書く(搔く)」ことを意味していた。しかし今は違う。今は「書く」ということは、キーボードの変換キーを押した時に幾つかの変換候補の中から正しい選択肢を選ぶことを意味する。
 
 ただし私は学生時代に書道を学んでいた人間として、「書く」ことを学ぶことがまったく無意味なことだとは思っていないし軽視もしていない。寧ろ重視している。手で書くことは、文字の構造を理解し、どうして文字がそのような形であるのか、すなわち筆の流れに沿って漢字やひらがなが成り立っていることを理解することができる。また、手書きの文字はそれ自体が文化であり藝術でもある。
 

 この問題について考えていた時にちょうどBBCでこんな文章を見つけた。もう五年も前に書かれた記事だが、子どもたちに筆記体を教える必要はあるか?という記事だ。英語はたった26文字しかないので学ぶ方も大した苦労はないだろうが、漢字は常用漢字だけでも約2000字もありそれを書けるようになるには大変な苦労を伴う。
 
 ここ数年、手書き文字を自動でテキスト化する機能を持ったアプリが幾つか登場している。iPadOSにも「スクリブル」と呼ばれる機能が登場した。精度が高く、日本語つまり漢字、ひらがな、カタカナに対応している。漢字の細かい点画がうろ覚えであったとしても大体の形が書ければ“正解”の漢字を示してくれるアプリもある。スタイラスペンでひらがなを書けばそれの漢字の変換候補を示してくれるアプリもある。こうした機能の登場により手書きは再び多少復活しているかもしれない。私がいちばん実感しているのは学校だ。今の大学では学生たちは紙のノート、ノートPC、タブレットPCなど様々なノートを使用している。手書き認識機能の精度向上により、タブレット×スタイラスペンという組み合わせでノートを取る学生は多くなって来ている。そしてこの組み合わせならば漢字を「手書き」する力が求められる。
 
 しかし、図や絵を描く時はキーボードより手書きの方が速いだろうが、文字だけを表記するならばキーボードの方が速いだろう。
 
 そして現代の日本社会は、日常で使う漢熟語はどんどん平易化していっている。もはや難しい熟語、漢字が書けなければいけない場面は漢字テストの時くらい、という本末転倒な状況が出現している。
 
 こんな状況下で子どもたちに漢字を手で書けるように教える必要はあるのだろうか。
 
 私の今のところの考えは、漢字を手で書くことを教える意義はあるが、漢字を手で書けるようになることを目指すことはない、というものだ。言い換えれば、漢字テストで高得点を目指すように子どもを導くのはやめにした方がよい。漢字テストは、挑戦し甲斐があると感じる子どももいるだろうから一概に悪いとは言わないが、少なくとも大人の側がそこを目指すように導くのは違うのだという気がしている。
 
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