漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

前提の「ば」批判

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前提を問わないまま前提を深めていく社会

 
 今の時代、前提を置く「物言い」をする人ばかりである。
 
「この方法をすれば、あなたも痩せられる!」
「この本を読めば、人生の成功を摑める!」
「一日たったの五分これをすれば、英語がペラペラに!」
「信じれば、救われる」
 
 今の人は「ば」を付けずに物を言えない。すべてに「ば」が付く。私はこれを「前提の『ば』」と呼んでいる。
 
「こうすれば、気持ちが楽になる」
「自分が変われば、人生は変わる」
「こんな考え方をすれば、幸せになれる」
 
 こういう物の言い方が私は大嫌いである。
 
 前提が無ければ成り立っていないのに、その前提部分を都合よく隠して、「ば」以降の後半部分のみをライトアップして相手に訴えかける。
 
 前提を断つ努力をするか、もしくは前提を問うか、どちらかすべきである。
 
 ところが今の人たちは、前提を深めながら、それでいて前提を問わない。
 
 例えば、私が嫌いな「ば」の言い方の代表的なものに、「やればできる」がある。人が「やればできる」と言うとき、その人は明らかに「できるかできないか」を問題にしている。「君にもできるさ!」ということを強調したがっている。「やるかやらないか」ということはまったく問題にしていない。
 
 こうして誰も前提を問わず、世の中は“ふざけた”まま進むのだろう。「can」ばかりを問い「do」を問わず、それでいて前提条件ばかりどんどん付け足していく。誰も前提を問わないからだ。だからいい気になってどんどん「ば」を重ねていく。
 
 前提を重ね着してる世界は美しくない。前提を言わなければ言えないような事なら、何も語るな。前提を問わないなら、「ば」は語るな。
 
 この前提の「ば」は、仮定の「れば」だが、所謂「たられば」とは違う。「たられば」に対する批判は今までにもある。「たられば」は「あの時こうしていたら」、「あの時こうしていれば」という後悔を表す。
 
 人々は「たらればの話をしても仕方ない」と言う。これは過去のことはしょうがない、という意味である。
 
 

なぜ過去はしょうがなくて未来はしょうがなくないのか

 
「たらればを言ってもしょうがない」
「歴史にたらればは無いんですけどね」
 
と言う人は多い。過去のことについて「もし、あの時こうしていれば」などと言っても、過ぎ去ってしまったことはどうしようもない、というわけだ。過去についての「ば」は、こうして戒めるのに、どうして現在、未来についての「ば」を戒める人は少ないのか。
 
 私の言う前提の「ば」は過去ではなく未来である。
 
「いつも笑顔でいれば幸せがやってくるよ」
 
というような「ば」である。過去のこと、終わったことではない。これから幸せがやって来る、と言っているのである。
 
 私は「ば」の言われ方をされると、「そりゃそうでしょうね」という返事以外、何も思い浮かばない。
 
 自分が幸せを手に入れる方法ばかりに興味を持ち、相手もその方法に一番興味があるはずだと思い、「こうすれば幸せになれる!」と言う。その人がなぜ笑顔を失っているのか、なぜ笑えないのかを考えない。
 
 

「アウトプットの重要性」については皆言うくせに、その前提は問わない

 
「なんで忘れちゃうんですか!こういう時は右クリックって前も教えたでしょ!」
 
 パソコンが得意な人が、パソコンの使い方を一向に覚えない老人を叱っている。
 
 あなた方がパソコンが得意なのはパソコンを毎日使っているからである。老人がパソコンを覚えられないのはパソコンを毎日使わないからである。「パソコンを毎日使う」という恵まれた前提環境があるからこそ、パソコンが得意でいられる。
 
「パスワードは大事だから絶対に忘れちゃ駄目って言ったでしょ!」
 
 しかしパスワードを忘れてしまうのは「老人だから」ではない。老人だって毎日ログインパスワードを入力していれば覚えるし、若者だって一年ぶりにパスワードの入力を求められたら思い出せない。
 
 あるいは「英語は毎日使うことが大事ですよ。それが英語上達の道です」と言う。それは確かにそうだろう。だが誰も「英語を毎日使う」環境が整っているかどうかは問わない。
 
 「たくさんの人と話すことで新しいアイデアが生まれますよ」。そりゃそうでしょうね。で、その人がたくさんの人と話すことができない理由を誰かほんの少しでも考えたことがあるのか。 
 
 アウトプットの重要性については皆語るわりに、その前提となる環境や条件については誰も語らない。
 
 

無限前提化する世界

 
 このまま無批判な「ば」の暴走を許せば、世界は無限前提化していく。世界はすでにそうなってきている。
 
 Zという夢を達成するにはYが必要である。XをすればYができる。Xの前提としてWが。Wの前提としてVが必要。Vを達成するためにはUが、Uの前にTが、Tの前にSが…。
 
「…というわけでBのためには先ずAが必要なのです」
 
 こうして「風が吹けば桶屋が儲かる」が完成する。
 
「あなた、自分の家の商売である桶屋をもっと儲かるようにしたいんですか? だったら、先ずは風を吹かせることですよ」
 
 こんなアドバイスを受けて納得できる人がいるのか。
 
 誰も「ば」について考えず、検証、検討する気もなく、無批判に「ば」の増長を許した世界は斯様に意味の分からない世界である。
 
 
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元号公表時期問題は即位日と改元日をずらせばいい

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 先日の日経新聞によれば、自民保守系の議員が新元号の発表は新天皇の即位後にすべきだ、と政府に要請したらしい。
 
 
 このニュースに対して、IT技術者が多いはてなユーザーは大ブーイング。はてなブックマークコメントは呆れと怒りの声に溢れていた。
 
 多くのはてなー(おそらく国民も)は、少しでも早く、遅くとも3か月前あるいは半年前には新元号を公表してほしい、と前々から訴えている。
 
 それに対して、今回の自民保守系の議員の言い分は、新しい元号は新しい天皇が公布するのが伝統に則ったやり方だから、そうすべきだ、という意見である。
 
 一見、この自民保守系議員とはてなーたちの意見は対立しているように見える。だが、そうではない。両者の言い分を受け入れ、両者を納得させる方法がある。
 
 それは、即位日と改元日をずらせばいいのである。
 
 現代の人々は即位日と改元日が同日であるのを当然のことのように思っている人が多いが、江戸時代までは即位日と改元日がずれているのは全然珍しいことではなかった。
 
 即位日は2019年5月1日と決まっている。これはいろいろな皇室内の行事の関係で動かせない。で、この日に新しい元号を新天皇が発表するのである。そして、その3か月後の8月1日頃に改元を行うのである。つまり7月まで「平成31年」を使い、8月から「◯◯元年」を使うのである。
 
 このようにすれば、「新元号は新天皇のお口から発せられるべきだ」という自民保守系議員も、「最低でも元号が切り替わる3か月前には公表してほしい」というはてなーたちも、両者満足できるであろう。
 
 もちろん、8月1日ではなく9月1日からでも10月1日からにしてもいい。
 
 ただ、今からこの日程を変えるのは難しいだろう。保守系議員のいう「新天皇のお口から公布せられるべき」というのは私も尤もだと思うが、それはもっと早く言うべきであった。「報道されたのが遅かっただけで、私たちは早くから言ってました」ということなのかもしれないが。
 
 議員、政府の中にも「即位日と改元日は同じ日でなければいけない」という思い込みがあったのでは?
 
 即位日は祭祀の要素が強いので宮内庁主導で決められてしまうところがあるが、改元日はどちらかと言えば行政サイドの話なのだから、もっと早い段階から訴えていれば、両者納得のいく形にできたかもしれないのに。
 
と思った。
 
 
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完璧主義とは何か

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 私は、他人とはあまり「完璧主義」について議論したり話したりしないようにしている。それは、「完璧主義」についての抑々の認識が異なっているからだ。
 
 「完璧主義」で検索すると大体「どうやってなおすか」といったような話ばかり出てきて、まるで病気扱いである。
 
 多くの人が思っている完璧主義とは、「完璧を目指す(目指そうとしている)態度、姿勢」のことであり、完璧な世界を目指す人のことを「完璧主義者」と言っている。
 
 私は完成された完璧な世界そのものだと思っている。
 
 ここに認識の違いがある。
 
 だから、他人が「完璧主義っていうのは、少しのミスも許さない、許せないような空気を作ってしまって、世界がギチギチで息苦しいものになってしまうんだよね」などと言っているのを聞くと「息苦しくなってしまうんだったら、それは、じゃあ、完璧じゃないじゃん」と思ってしまう。
 
 「そんな完璧な世界は、進歩のない停滞した世界ですよね」などと言っているのを聞くと「だったら、そこも完璧じゃないじゃん」と思ってしまう。もし、進歩のない停滞した世界をつまらない世界だと思っているなら、そういうちょっとでもつまらない点がある時点で完璧ではない。
 
 「息苦しい」などという不都合な事態が起こるなら、それはもう全然「完璧」ではないわけで、「いきやすい」ほうが「完璧」だろう。
 
 「でも誰かにとって生きやすい世界は、他の誰かにとっては生き苦しい世界なんですよ」と言う人がいるが、そんな不都合が起こってしまうなら、それもやはり「完璧」ではないだろう。
 
 「完璧主義はこれこれこういうところが問題なんですよね」という発言を聞くたびに、私はムズムズ、イライラする。「どんなことであれ“問題”があるんだったらそれはその時点で完璧じゃないだろう」と思ってしまう。
 
 あなたがたの言う「完璧主義」は「完璧を目指す主義」なのだ。
 
 
 
 ただしこれは、そんなに何もかもが完璧な世界というものがあり得るかどうか、という話とは別の話である。
 
 私はそんな「完璧な世界」があり得るとは思っていない。
 
 一方で、もっとずっと完璧に近い世界というのはあり得ると思っている。今の世の中は「完璧な世界」からほど遠い存在であり、そして今よりずっと完璧に近い世界に到達することはそんなに無茶なこととも途方もないことだとも私は思っていない。
 

利用者証明用電子証明書のスマホへの格納はマイナンバーカードなしでできるようにしてほしい

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 先日、読売新聞が伝えたところによると、政府は、マイナンバーカードに内蔵されている公的な電子証明書を、スマートフォンにも搭載することができるよう関聯法案の法改正に入る予定だという。
 
 
 しかしこれ、スマホへの格納に、マイナンバーカードが必要だというのだ。
 
 やり方としては、以前はオンライン方式を考えていたようだが、本人確認を厳格にするために、役所の窓口に行って手続きをするやり方に変わったようだ。
 
 だが。
 
 窓口で厳格に本人確認を行うのなら、電子証明書は直接、スマホに入れてくれればよいではないか。これではまるで、「モバイルSuicaをご利用になる場合は、まず一旦、カードを購入していただいて、そのカードをスマートフォンに当てて…」と言っているようなものだ。
 
 モバイルSuicaを利用しようとして、わざわざ一旦、プラスチックのSuicaカードを購入しようとする人はいない。
 
 なぜこんな手間を?
 
 技術的に難しいのだろうか。それとも他にもっと何か問題が?
 
 ぜひ、マイナンバーカードなしでできるようにしてほしい。
 
 
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国の「プッシュ」型サポートの問題点

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 マイナポータルの“売り”の一つに「プッシュ通知」がある。
 
 今までとちがって、行政側からプッシュ型でお知らせしますよ、ということである。
 
 一見、良い事のように見えるが、プッシュ通知は無視する人も多い。今でもパソコンを使っている時に、OSやらブラウザやらアプリやらから、いろんな通知が次々と表示されるが、今急いで何か目的をもってしようとしていることと全然違う内容の通知が来ても、読むのがめんどくさくて、または「また後で読む」ことにして、取り敢えず右上の✕ボタンで閉じてしまってる人も多いだろう。
 
 国は今、「プッシュ型」を推し進めている。平成28年熊本地震や平成30年7月の西日本豪雨でも、国による「プッシュ型支援」が行われたと聞いている。これは被災地の要請を待たずに、とにかく必要と思われるものを国から被災地に送り届けよう、という支援の形である。
 
 ここで気をつけたいのは、同じ「プッシュ」という言葉を使っていても、「プッシュ型支援」と「プッシュ通知」はかなり似て非なるものだということである。
 
 プッシュ通知は単なる「お知らせ」である。「健康診断が受けられますよ」とか「あなたはこれこれの受給資格がありますよ」とか、そういった区(市)からのお知らせは、マイナポータルが始まる以前から、紙で郵便で届いていた。
 
 これでは結局、「いちおう、お知らせしましたからね。これを利用したかったらちゃんと期日までに申請してくださいよ」という、従来の申請主義と変わらない。
 
 災害の時には踏み込んだ支援ができるというなら、災害ではない平時における日常生活で苦しんだり困ってる人たちに対して、もっと踏み込んだ支援ができるような仕組みをつくるべきだ。
 

危ないアボリジニー 〜クルマ社会を疑わない人々〜

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 オーストラリアの先住民族アボリジニー
 
 19世紀にオーストラリア大陸にやって来たイギリス白人。
 
 そのイギリス白人たちの会話。
 
アボリジニーの人たちって危ないよね」
 
「ここは私たちの射撃場なのに」
 
「『立入禁止』ってちゃんと書いてあるのに、あの人たち字ぃ読めないのかなあ」
 
「わかる。この間、私も射撃を楽しんでたら、アボリジニーが急に飛び出して来てひやっとした」
 
「ほんと、危ないからここら辺を横断するのやめてほしいよね」
 
「このあいだも、射撃を楽しんでいた人が夜間に急に飛び出してきたアボリジニーを撃ち殺してしまったってニュースでやってたね」
 
「しかも、そのアボリジニーは体に蛍光色とか光るものを何も身に着けていなかったんだって」
 
「うわ。夜間にアボリジニーを見分けるとか無理ゲー」
 
「うわぁ。それはさすがに撃ち殺してしまった人がかわいそう。一生、人を殺してしまったという重荷を背負って生きていかなきゃいけないなんて」
 
アボリジニーたちは頼むから、夜間に出かけるときは蛍光色の服を着ていてほしい。ほんとに危ないから。射撃する側からどんなに見えないかということを知ってほしいよね」
 
 
 「危ない」という言葉は不思議な言葉で、交叉点で子どもとトラックが出会い頭に衝突しそうな場所では、子どもの側から言ったら「トラックが危ない」と言い、トラックの側からは「飛び出す子どもが危ない」と言う。子どもには「クルマが危ないから気をつけてね」と言い、運転者には「飛び出す子どもが危ないから気をつけてね」と言う。
 
 クルマと子ども、いったいどっちが「危ない」のか。
 
 このアボリジニーの喩えは、日頃、クルマを運転する人たちが歩行者に向かって言っていることである。
 
 バスの車内では「道路の横断歩道がない場所での無理な横断はたいへん危険ですのでおやめください」というアナウンスが繰り返し流れている。自動車を優先し、横断歩道を何十メートルも先に作っておきながら、歩行者の「無理な横断」を咎める。
 
 「歩道橋」という、歩行者に信じられないほどの労力を使わせる設備もある。
 
 
 白人たちは事故が多発していることを知りながらも、あくまでも「アボリジニーが危ない」「アボリジニーたちにきちんとルールを解らせなければ」と言い、「銃が危ない」とは決して言わない。自分たちが手に入れた便利な道具、楽しいおもちゃを失うのが嫌だからだ。
 
 
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蒸気機関車と頭の固い現実主義者たち

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 頭の固い現実主義者たちとどう闘っていくか、ということが自分の中でもう何年も前から課題になっている。
 
 特に日本には頭の固い現実主義者が多い気がする。
 
 
 明治時代、ある村で蒸気機関車を通すか通さないかに対して賛成派と反対派に意見が分かれている。
 
 反対派「反対です。村の自然が壊れる。線路によって村が分断されてしまう」
 
 賛成派「賛成です。蒸気機関車が走るようになれば村が活性化します。この田舎の村にも文明を取り入れ賑わいを取り戻すべきです」
 
 反対派「こんな牧歌的な田舎の村に蒸気機関車は似合いません。あんな真っ黒い鉄の塊が村の真ん中を疾走するなんて危険です」
 
 賛成派「反対派の人たちはもっと現実を見てください。徳川の御世は終わったのです。今や文明開化の時代。我が国も蒸気機関車を取り入れなければ西欧列強に追いつけません」
 
 反対派「蒸気機関車は騒音も大きいし、吐き出す煙によって空気も汚れます。断固反対です」
 
 賛成派「文明開化のこの時代に文明を否定するなんて馬鹿げています。あなたたちが否定しようとも、世の中はもう文明化の方向に進んでいるのです。これからの時代、蒸気機関車はますます増えて行くことはあっても減ることはありえません。そんなに文明が嫌なら、あなたたちだけ馬や人力車にでも乗っていたらいいと思います」
 
 おそらく、反対派と賛成派の間で、このような応酬が交わされていたことであろう。
 
 私みたいな守旧派タイプ、伝統や自然を大切にするタイプの人間は、もし明治時代にこの村に居たら、反対派に加わっていただろう。
 
 反対派の人間から見たら賛成派の人たちは国家主義的に見える。「富国強兵」、市民の生活よりも国を富ますことを優先する考え方のように見える。
 
 だが賛成派の大半の人々は「国家」などという大きなことを考えているのではなく、もっと卑近な「現実」を考えているのだ。彼らは国家主義者でも軍国主義者でもなく、ましてや「戦争好き」なわけでもない。「現実主義者」なのだ。
 
 賛成派の人々にとって蒸気機関車は「現実」なのだ。もちろん、「誇らしい気持ち」というのはある。こんな田舎の村に文明の利器がやって来たことも何となく誇らしい気持ちだし、日本国に蒸気機関車が走れば西欧列強の国々に肩を並べたような気持ちで誇らしい。
 
 だが「誇らしい気持ち」だけで賛成しているわけではない。それ以上に「現実」なのだ。そういう世の中の流れ、時代の流れなのだ。今はもう徳川の御世とは違って文明開化の時代なのだから、その時代の流れに「沿う」ことがもっとも現実的な判断だと考えている。
 
 反対派の人たちが言う「村が線路で分断する」、「騒音がうるさい」、「空気が汚染される」というのも分からないではないが、もうそんなことを言ってもしょうがない、日本中が文明開化の方向に進んでいるのに、うちの村だけ時代の流れに逆行するわけにもいかない。これも時代の流れなんだから粛々と受け入れるしかない、というのが賛成派の人たちの考え方だ。
 
 
 だが。
 
 私はこの賛成派の人たちの言う「しょうがない」が気になる。本当に時代の流れだから「しょうがない」のか?
 
 私が反対を叫ぶと賛成派の人たちは「あなたは蒸気機関車を嫌ってますけど、あなたがどんなに蒸気機関車を嫌ってもこの世からなくなりませんよ。これからの時代、蒸気機関車はますます増えていくことはあっても減ることなんてありませんよ」と言う。
 
 しかし、それから100年余後、今の世の中に蒸気機関車が走っているか。観光用で一部走っているものを除けば、今の日本に蒸気機関車は走っていない。「これからどんどん増えていくことはあっても減ることはない」とあの時言っていた賛成派の人間たちの言葉は嘘だった。
 
 彼らはよく「しょうがない」という言葉を口にする。「しょうがない」とは「仕様がない」、「他にやりようがない」という意味の諦めの言葉だ。
 
 賛成派の中には積極的賛成派だけではなく消極的賛成派の人もたくさんいる。「私もたしかにあの音はうるさいと思います。でも文句を言ってもしょうがないでしょう。これも時代の流れなんですから」と言うタイプの人だ。
 
 そしてこういう消極的賛成派のために、多数決をとれば賛成派が上回り、蒸気機関車敷設計画は可決される。
 
 彼らはとっても狭い「現実」しか考えていない。移動手段なら他にも考えられる、とか、富国強兵なら他の方法で国を富ますこともできる、とか、そういう発想をしない。「これが現実。これが時代の流れ。人力車から蒸気機関車へという時代の流れは誰にも止められない。それに文句を言ってもしょうがない。私たちは現実に即して生きていくしかない」。
 
 だから日本ではイノベーションが起こらない。海外や国や大企業から与えられたものを「これが今の世の中の流れだから」と言って淡々と受け入れる。
 
 彼らが蒸気機関車に拘って、昭和後期になっても蒸気機関車に乗り続けていたなら私は敬意を表したい。だがそんな人はいない。彼らは「蒸気機関車主義者」なのではなく単なる「現実主義者」だから。電車が「現実」の時代になったら電車に乗り換える。
 
 すぐに「しょうがない」という物言いをする現実主義者たちが嫌いだ。本当に他にやりようがないか考えたのか。電車や自動車について考えてみたことはあるのか。彼らが「今は蒸気機関車の時代だから」と言うとき、まるで時代の定義が所与のものとしてあるかのようだ。今を「蒸気機関車の時代」にするかどうかは自分たちが決めることなのだ。
 
 こういう頭の固い現実主義者たちは今でも多い。明治時代の蒸気機関車を例にして書いたが、似たような問題は現代でも無数にある。そこにあるのは「経済優先か環境保護か」、「経済成長か持続的安定か」といったような対立ではなく、どちらにしろ「現実」に従って行くであろう多数の現実主義者たちとの闘いである、と私は思っている。
 
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