漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

旧公衆衛生院に行ってきた

 改元に伴う10連休のゴールデンウィーク。どこにも行かないつもりだったけど、近場でお金もかからなくて人も少ないところだったらいいかな?と思って、港区立郷土歴史館(旧公衆衛生院)に行ってきました。
 
 東京メトロ南北線都営三田線白金台駅を降りてすぐのところにありました。
 
 建物自体はかなり昔からあるのですが、2002年までは公衆衛生院として使われていたので部外者は入れず、港区立郷土歴史館としては昨年2018年にオープンしたばかりで、東京人の間でもあまり知られていない感じの建物です。
 
 左の門は東京大学医科学研究所附属病院。右側が旧公衆衛生院の入り口。

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 見えてくる建物。f:id:rjutaip:20190510205450j:plain
 
 左側に回り込むと正面が見えてきます。

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 この建物は本郷東大の安田講堂を作った内田祥三が手がけた建物だそうで、重厚な建物です。
 
 正面から中へ。入館料300円を払って建物内部を見学。
 
 主な見どころは、建物そのものと常設展(港区の歴史等)と企画展です。私は建物を見るのが目的だったので企画展のチケットは買いませんでした。
 
 気づいたことは、無駄に係の人が多いということ。そして係の人というのは大抵、「そこは立ち入らないでください」とか「それは触らないでください」とか細かく口うるさく言って来るイメージがありますが、ここの係の人たちはそういう感じではなく、皆やたらと案内などが丁寧でした。
 
 中央の吹き抜けのところ。

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 皆、写真を撮っていました。基本的には写真を撮っていけないところは少なく、立ち入り禁止の部屋などは開けようとしても鍵がかかって入れないように始めからなっており、見学中にいろいろ口うるさく言われなかったのが良かったです。
  
 階段もなんか楽しい。この写真は2枚の写真を真ん中でつなぎ合わせているように見えますが、一枚の写真です。

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 見どころの一つ。趣のある講堂。

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 迷路感がある廊下。子どもの時にここに来ていたら10倍くらい亢奮していると思う。

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 館内をいろいろ歩いていると、相当、年代物と思われるエレベーターの遺跡を発見。

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 ボタンの上に何か書いてある。

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此ノ釦ヲ押セバ乘籠ガ來マス。
乘籠ガ止マツテカラ扉ヲ開ケテ
御乘リ下サイ。
運轉中ハ釦ヲ押シテモ無駄デス。
(このボタンを押せば乗り籠が来ます。
乗り籠が止まってから扉を開けて
お乗り下さい。
運転中はボタンを押しても無駄です。)
 
「運轉中ハ釦ヲ押シテモ無駄デス。」
 
「無駄デス。」
 
 何だこれ。最後の一文がめちゃくちゃ面白くて笑ってしまった。もう、こんなのを発見できただけでも、来た甲斐があった。それにしても、昔のエレベーターは手動で扉を開けていたのか。こんなエレベーターが今でもあったら最高なのに。
 
 他にも、オーガニック(?)な感じのお洒落なカフェもありました。

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(他の客がいたため、全景は撮れず。)
  

まとめ・感想

 建築に造詣の深い人だったらもっと細かいところにたくさん気づくでしょう。

 この記事では省略しましたが、各部屋が常設展示室になっており、いろいろ港区の歴史を学ぶことができます。図書室もあり、そこは普通に読書することもできます。

 トイレなどは改装されて今どきの綺麗なトイレになっています。(ただし昔のトイレを使ってみたかった気もする。)

 あと、休憩室とかいろいろなところに手洗い台が残っていて、さすが公衆衛生院、と思わせてくれます。

 一つ一つの調度品も美しく、こんな所に住んで学んでいた当時の学生が羨ましくなりました。

 この建物を取り壊さず、活用する方向に動いたのは賢明だったと思います。

 

 昨年2018年にオープンしたばかりであまり知られていないせいか、ゴールデンウィークにもかかわらず人は少ないし、300円だし、かなり満足でした。

 

女性の「おいしそう」=「食べたい」に気付かなかった話

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 もう、だいぶ昔の話。
 
 女性とデートをした時のこと。残念ながら恋人ではなく親戚の女性だったので、所謂「デート」ではないのだが。
 
 親戚の女性が上京してきたので、私が一日街案内をすることになった。当日、私は街や建物の歴史や由来などの話をしながら、なるべくその女性が退屈しないようにしながら二人で歩いていた。
 
 歩いている途中に女性が通りすがりの飲食店や菓子店などの前で、「ねえ、あれおいしそうじゃない?」と言うことが何回かあった。
 
 私は「そうだね。おいしそうだね」とだけ言って、そのまま歩みを止めずに再び歴史の続きを話し出した。
 
 その「おいしそう」が「食べたい」だとは思わなかった。
 
 私は「おいしそうだね」は、「おいしそうに見えるね」ということだと思っていた。そう言われれば確かにおいしそうには見えるので、「うん。そうだね、確かにおいしそうだね」と答えていた。
 
 私は「この一帯は元々、◯◯家の屋敷があった所で…」とか、「ここら辺の町名は江戸時代には◯◯と言って、その由来は…」というような話をしていたが、その女性は歴史にはあまり興味がなかったようで、私の話には「ふーん」とか「へー」と相槌を打っていて、それで歩いている途中にときどき「あ!あれもおいしそうじゃない?」と言うのだった。
 
 食べ物にあまり興味がない私は、指さされた方向を見て、なるほど確かにおいしそうには見えるな、と思って「そうだね。おいしそうだね」とだけ返事して、ことごとくそういった店の前を通り過ぎて行った。
 
 あのデート中に何回か発せられた「あれ、おいしそうじゃない?」が「食べたい」の意だったのだと私が気づいたのは、後日になってからのことだった。「食べたい!」、「いっしょに食べていこう!」と言ってくれれば、もちろん一緒に食べてよかったのだが…。
 

マイナンバー制度が普及しない理由

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 マイナンバーの利用率が0.1%というニュース。
 
 因みにここでは、マイナンバー(番号)とマイナンバーカードを合わせて「マイナンバー制度」と言う。
 
 マイナンバー制度が始まってもう三年近く経つが、なぜ全然普及しないのか。
 
 それは「狙い」が無いからだ。私も当初は、国の「野望」や「陰謀」と言ったら大袈裟かもしれないが、「狙い」があるだろうと思っていた。
 
 マイナンバー制度の「狙い」は、とりあえず簡単に分かるものはある。「徴税」だ。これは国民の誰もが思っているだろう。「税金を厳しく取り立てたいから国はマイナンバー制度を作ったんでしょう」とみんな思っている。
 
 だが、それ以外の狙いが見えて来ない。
 
「国が国民を監視する社会を作りたいんでしょう」
 
と思ってる人も多いかもしれないが、その監視の動きもなかなか進んでいない。
 
 一般的にマイナンバー(番号)は行政側の話で、マイナンバーカードは国民側の話だが、今のところ普及してないのはマイナンバーカードだけでなくマイナンバー(連携)の方も普及していない。裏でマイナンバーの連携をいろいろ進めればもっと管理・監督が進むだろうにそれもしていない。
 
 国民がマイナンバー制度を利用しない理由は簡単で、一つは個人情報が筒抜けになりそうで怖いというもの。もう一つはマイナンバーカードを取得するメリットが今のところコンビニで住民票の写しが取れる、といった程度しかないというもの。
 
 一方、国がマイナンバー制度を普及させない理由は何なのだろう。質問すれば「国民の理解がなかなか得られないから」とか「国民のあいだでマイナンバーに対する拒否感が強いから」などといった答えがかえってくるだろう。
 
 だが、おそらくそうではない。
 
 国がマイナンバー制度を積極的に普及させない理由、それは「ビジョン」がなかったからだ。「ビジョン」は「狙い」と言ってもいいし「目的」と言ってもいい。すなわち、「マイナンバーを使ってこういう社会を実現したい!」とか「マイナンバーカードを使ってこういうことができる世の中にしたい!」だとか、そういう具体的な夢や希望が無かった。
 
 ではなぜ国はマイナンバー制度を作ったのか。
 
 それは「諸外国もそうしていたから」だ。
 
 米国、韓国、ヨーロッパなどの先進国には皆、個人番号制度がある。実際、今から十年以上前の話だが、ヨーロッパまで視察に行っていたりしたようだ。そうしてそれらの先進国の有り様を見て、「我が国も遅れをとるわけにはいかない」、「先進国の中で個人番号制度がないのは日本だけ。恥ずかしい」、そういう気持ちからマイナンバー制度を作った。
 
 で、試行錯誤の上、なんとか作り上げることに成功した。ホッとした。これでもう先進諸外国から「おたくの国には個人番号制度は無いんですか?」と馬鹿にされずに済む。「うちの国にもマイナンバー制度という立派なものがあります」、「日本のマイナンバーカードのICチップには最新のテクノロジーが使われているんです」と胸を張ることができる。
 
 完成してホッとしたところで止まってしまったのだ。
 
 もちろん大事なのはその先の運用、利活用なのだが、どのように活用したらいいのか分からない。
 
 そもそも作り始めのきっかけが「マイナンバー制度を作ってこういう社会を実現したい」ではなく、「どうやら海外の先進国には、だいたい何処も個人番号制度というものがあるらしい。日本だけ無いのはやばいんじゃないか」というところから始まっているので、制度ができた時点で目的も果たしてしまったような感覚になっている。その先の活用方法は分からないし、あまり興味もないのだ。
 
 国民がマイナンバー制度について詳しくなかったり関心がなかったりするのは致し方ない面もあるが、国がマイナンバー制度の活用の仕方を分かっていないのでは、ほんとうに「一応、作りました。使ってはいませんが」というものになってしまう。
 
 デジタルファースト法案でも「すべての手続きはデジタルでもできるように」という当たり前のことが言われているだけで、マイナンバー制度の具体的な利活用の道筋は示されていない。(もちろん当たり前のことだけでもやらないよりはマシだが。)
 
 マイナンバー制度は当初はもっとたくさんの利活用計画があった。ところがここ一、二年、それらの計画の話もまったく耳に入ってこないようになった。
 
 どうしてこうなってしまったのだろう。
 
 これも私の推測だが、マイナンバー制度を作っている時に参画していた外部の人たちが、制度の完成とともに去って行った。そこで残された政治家と官僚たちが「で、このマイナンバー制度っていうやつは、どうやって使えばいいんですか?」と困惑しながら立ち往生しているのが今なのではないか。
 
 大雑把にはそんな感じなのではないか。
 
 技術的なことに留まらず、利活用方法についても、外部の人に指示を仰ぐべきなのではないか。「そんなことは政治家がやるべきことで、外部の民間の人間が口出しするべきことではない」と言うかもしれないが、それなら尚更、政治家たちはマイナンバー制度の具体的な利活用をもっと早急に進めていく必要がある。
 
 このような状態を長く放置しておけば、国民からは「マイナンバー制度はやっぱり失敗だったね」と、どんどん過去形で語られてしまうだろう。
 
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電化製品のスイッチが入ったのがわかる人

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 私は家電などのスイッチが入ったのがわかる。隣の部屋に居たりしても。
 
 これが珍しいことなのかどうかわからない。ネットで検索してみたら一人だけ見つけて、ああ、自分以外にもいるんだ、と思った。
 
 因みに、隣の部屋のテレビやパソコンが「点いている状態にあることがわかる」という人は結構いるらしい。音を完全に消していても、普通の人には聴こえない音域の音が聴こえているからわかるのだそうな。
 
 私の場合は「点いていることがわかる」のではなく「点いたことがわかる」。電源が入ったことがわかる。すべての家電がわかるわけではなく、いちばんわかりやすいのは電子レンジや掃除機。
 
「音がするからでしょ?」
 
 そうではない。電子レンジのスタートボタンを押したら確かに「ブーン」という音を立ててレンジが回転しだす。掃除機も大きな音が出始める。だが、その音が聴こえてくるよりも先にスイッチが入ったことがわかるのだ。
 
「見えてるからでしょ?」
 
 自宅内の隣の部屋やマンションの隣の部屋ぐらいまではわかることもある。二つ隣の部屋くらい離れると、さすがにわからないが。
 
「スイッチを押す音が聴こえてるんでしょ?」
 
 それは聴こえていない。
 
「不思議な能力?」
 
 自分でもなんでわかるのか考えてみたが、不思議な能力というわけではなく、光が見えているのだ。電化製品はスイッチが入った時(電源が入った時)に一瞬、光を発する。ただ、それはあまりにも短い刹那の閃光なので大抵の人は気づかない。私も気づくときと気づかないときがある。
 
 ちょうど雷が落ちる時にカーテンを閉めていても部屋の中に一瞬、光が走る感じと似ている。(音が遅れてやってくるところも。)ただ、雷の光は誰でも気づくが、電化製品の場合は、光る時間が短いのか、それとも光の量(?)が小さいのか、気づくことは難しい。
 
 電子レンジ、掃除機以外だと、冷蔵庫、エアコン、テレビ等、比較的大きなものが気づきやすい。(冷蔵庫は運転している時と休んでいる時がある。その運転し始める時に光を発する。)スマホの電源は入っても気づかない。おそらく大きい物はそれだけ強い光を発しているのだろう。
 
 本当に目で「見えた」とは言えないくらい短い瞬間、光が走る。それで気づく。音速はとても遅いので、その閃光にくらべれば、だいぶ後から掃除機などの「ウィーン」という音が聴こえてくる。窓が閉まっていたり部屋の壁が厚い場合などはもちろん音は聴こえないこともある。それでも光によって隣室の何かの電源が入ったということだけはわかる。それがテレビなのか電子レンジなのかというところまでは判らない。
 
 子どもの頃からよく気づいていたし、大人になった今でも電化製品のスイッチが入ったのがわかる。それがわかったところで別に得することは何もないのだが…。
 
 で、世の中には結構こういう人はいるのだろうか。それとも珍しいのだろうか。「私もわかりますよ」という人がいたらコメントください。
 

Twitter10年で使い方が変わった

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 今年でTwitterを使い始めてから10年になる。
 
 最初の頃にくらべるとTwitterの使い方も随分変わってきた。皆さんはTwitterをどう使っていますか?
 
 Twitterの使い方はたぶん次にあげるような使い方が考えられる。
 
・タイムラインを見る、読む。たまにリツイートしたり、いいねしたりする。
・何事かをツイートする。
・リプライで会話をしたり連絡を取ったりする。
・他サービスのログインアカウントとして利用する。
・トレンドやニュースを見る。
・検索する。
 
 私はリプライで会話というのはほとんど無いが、最初の頃は、上二つが多かった。つまり、自分がツイートするか、他人のツイートを読むか。
 
 だが最近は、下二つ、トレンドを見たり、特に検索に使うことが多くなった。
 
 昔、ウェブ上にはさまざまな検索エンジンがあったが、すべてグーグルの前に敗れて行った。Twitterの検索機能が今も生き残っていて重宝されるのは、明らかにグーグルの検索とは違った価値を提供できているからだ。
 
 例えば、私は朝、山手線が動いているかどうかをTwitterで検索して確認する。遅延が発生していればJR東日本の公式サイトにも情報は載るが、それはかなり遅い。グーグルで「山手線」で検索してもJRやウィキペディアのようなサイトが検索結果に出てくるだけだ。山手線が遅延していないかどうかを一番手っ取り早く知ることができるのはTwitterの検索である。「山手線、止まった・・・」とか、そういうツイートがどれくらいのボリュームで登場するかによって、遅延の“重さ”を測っている。遅延情報をキャッチしたらすぐに地下鉄に手段を切り換える。山手線は乗客数が多く、Twitter利用者がたくさん乗っているからこそできることでもある。
 
 他にも、例えば、ある製品のテレビCMを初めて流した時に、どれくらい世間の反応があるか、好意的か非好意的か、なんてこともTwitterの検索でこそ分かる。
 
 「まさに今」のことを知りたい時にグーグルは使えない。昔はグーグルもリアルタイム検索っぽいことをやっていた時期もあったようだが今はやってない。
 
 「ある会社のことについて知りたい」というような時も、その会社名でTwitterで検索すると、ググった時とはかなり違った情報が得られる。Twitterの検索機能はある種の口コミ、評判検索であるとも言える。
 
 「リアルタイム性が高い」ということと「世間の反応がわかる」という二点が、グーグルにはないTwitterの検索機能の価値だと思う。
 
 また、Twitterアカウントはグーグルアカウントと並んで、他サービスへのログインアカウントとして利用できることも多くなった。それだけ広く人口に膾炙しているということだろう。
 
 10年前、Twitterを使い始めたころは、他人のツイートを読むのも自分がツイートするのも新鮮でおもしろかった。しかし初期の頃にフォローしたおもしろい人たちは、その後Twitterから居なくなってしまった。おもしろい物を見つけるのが早い人たちは見切りをつけるのも早いということか。
 
 私は今では、Twitterを開く目的の8割ぐらいは検索目的になっている。皆さんはどうですか?
 
あなたのTwitterの主な利用目的は?
ツイートする
タイムラインを見る、読む
リプライで会話する
トレンド、ニュースを見る
検索する
他サービスのログインアカウントとして利用する
その他
 

キャッシュレス社会と新紙幣発行の不思議

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 政府が2024年頃を目処に新紙幣を発行するとして、その基本デザインを発表した。
 
 国はキャッシュレス社会を推進してるんじゃなかったの?
 
 「新紙幣を発行」って5年後も現金を使う気満々ではないか。
 
 政府もおかしいが、私ががっかりしたのは、普段から「全部キャッシュレスにしようよ。現金はもう古い」と言っていた人たちが「3Dホログラムで回転する肖像がどうなるのか楽しみ」などと言って、新紙幣発行のニュースに批判の声を上げなかったことだ。
 
 批判しないばかりか、「20年ごとの恒例行事だろ」と言ってる人を多く見た。情けない。
 
 たしかに今まで約20年周期で紙幣のデザインは変わってきたかもしれないが、この20年間の社会の変化を無視するのか?ここ数年は特にキャッシュレス化に力を入れてきたはずなのに、そういう変化は考慮せず、この先も20年周期の恒例行事を淡々と続けていていいのか?
 
「技術の継承という意味もあるんじゃないか」
 
と言ってる人も見た。
 
 もちろん、紙幣を伝統美術工芸品と見なし、それを大切に守っていくという観点からなら大事なことだろう。日本の紙幣の図柄は、とても高い技術を持った絵師が驚くべき緻密さと時間をかけて描いている。そうした職人技も含めて後世に伝え残していく価値があると思うなら、それは式年遷宮のようにどんなに時代や社会の有りさまが変わろうとも、きちんと伝えていくべきだろう。紙幣を伝統美術工芸品と見なすなら、新紙幣は銀行に配るのではなく、千葉県の国立歴史民俗博物館のようなところに展示し、伝統技術を引き継いでいる職人絵師が観覧者の前で描画を実演するのがいいと思う。それを観た子どもたちの中で感銘を受けた者が技を継ぎ、次代へと継承していくだろう。
 
 しかし皆、本当にそう考えているのだろうか。昭和前期まで存在した炭鉱夫の技術や、江戸時代に存在した飛脚の技術は、なぜ現代に継承されていないのだろう。
 
 私みたいに普段クレジットカードもナントカペイも使わない人間が新紙幣を好意的に言うならまだしも、普段から「現金は時代遅れ」みたいに言ってる人たちが新紙幣発行のニュースを好意的に受け取るのはどういうことなのか。本当に紙幣を100年後にも1000年後にも子々孫々、伝え残していくべきものだと思っているのか。
 
 一方では「キャッシュレス社会推進」と言い、一方では「新紙幣発行」と言う。ビジョンが無いのだ。
  
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自動車事故と“切り離し”の心理

 繰り返される自動車事故。
 
 東京で10人の死傷者を出す自動車事故が起きた。運転していたのは87歳、轢かれたのは31歳の母親と3歳の子どもだった。
 
 この事故を受けて多くの人が「また老人か」、「老人は免許を返納しろ」と言っている。
 
 ここには、老人個人の責めに帰することで、自分たちのおもちゃ(クルマ)に規制が及ぶのを避けようとする心理がある。
 
 このままクルマ社会全体の問題としての議論になって行ってしまうと、「物理的に時速50kmまでしか出ないような造りにしましょう」とか「法律も変えてすべての制限速度を50kmまでにしましょう」などという意見が出てきて、自分たちの普段の利便性にまで規制が及んでしまう。
 
 だから、「また老人か」と言って自分たち若者(20代〜60代)とは切り離すことで、問題を片付けようとしている。
 
「ブレーキを踏むなり、最悪、壁にぶつけて止めるなり、なぜそんな簡単なことができないのか。情けない」
 
と言ってる人もいる。
 
 何故そんな簡単なこともできないかって?それは、あなたが87歳になった時わかるよ。
 
「なぜ免許を返納しなかったのか」
 
と言ってる人もいる。
 
 それはおそらく、この老人がそれまでずっとクルマに頼った生活を送ってきたからだよ。若い人でさえ、今までの生活スタイルを変えるのはなかなか大変なのに、老人が長年続けてきた生活スタイルをそんな簡単には変えられない。
 
「悼ましい」
 
と言ってる人もいる。
 
 これは、「私たちは悪人ではなく、ちゃんと亡くなった方たちや遺族に思いを馳せることができます」という意思表示であるとともに、あくまでも「被害に遭われた方にとっては今回の事故はまったく不運な事故でした」ということにしたいという心理がある。
 
 人間は一度手に入れた利便性や楽しみ(ドライブの楽しみや車内空間の快適さ)は手放したくない。醜い。自分たちのおもちゃは必死に後ろ手に隠して「心からお悔やみ申し上げます」と言う。「心から」ではなく「(自分たちのおもちゃが規制されない程度に)お悔やみ申し上げます」ということだ。
 
 3歳の子どもの命よりも自分たちのおもちゃが大事な人たちが、「歩いてた人はたまたま運が悪かった」、「免許を返納しない老人は本当にひどい」と言うことで、いっしょうけんめい自分たちから問題を切り離そうとしている。
 
 自分がその3歳の子どもであった可能性にも、自分が将来その87歳の老人になる可能性にも、まったく想像が及ばない人たちなのだ。
 
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