漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

あるウクライナ人数学者の生

 先月、ある一人のウクライナ人数学者が亡くなった。

 

 この動画の8秒目あたりに一瞬映っている赤い巻き毛の女性。先々月まで生きていたが、2022年3月3日〜8日頃、侵攻してきたロシア軍のミサイルを受けてウクライナの都市ハルキウで亡くなった。弱冠21歳の若さだった。

 彼女の名はユリヤ・ズダノフスカ。ウクライナ生まれウクライナ育ちの数学者。数学大会の世界チャンピオン。幼い頃から類稀な数学の才能を発揮し、10代の頃は国際的な数学大会のウクライナ代表に、大学はキーウ大学でコンピューター科学を学んだ。数学の天才で、いつも被っていた黄色い帽子の下にはすべての数式を持っていたと言われた。

 指導教官をはじめ周囲の人は皆、彼女がアメリカの大学から声が掛かってそこで高いポストに就くだろうと思っていた。だがユリヤが択んだ道はボランティアだった。ドニプロペトロフスク州の田舎の村で子どもたちに情報学と数学を教えた。

 

 ユリヤはお父さんから数学の才能を、お母さんからボランティアの精神を受け継いでいた。

 ユリヤのお母さんは、おそらくウクライナで最初のNGO「ステーション・ハルキウ(Station Kharkiv)」を立ち上げた人だ。ステーション・ハルキウは2014年のロシアによるドネツク侵攻をきっかけに立ち上げられた。このNGO組織は2014年以来、人種・国籍・性別等の差別なく、困難な状況に置かれた避難民をずっと助けてきた。

 

 ユリヤはハルキウが危険な状態にあることを知らなかったわけではなかった。逃げ遅れたのではなく、困難な状況にある人々を助けるために敢えてハルキウに留まったのだ。2022年2月の終わり、ロシアがウクライナへの軍事侵攻を始めた直後、ユリヤはすぐに行動に出た。彼女は志願兵だった。兵と言っても武器を持って戦っていたわけではなく、避難民に食料や医薬品を届けるボランティアをしていたのだ。砲弾飛び交う危険なハルキウで、彼女をそのような行動に駆り立てたのはお母さんの影響だったかもしれない。そして何よりハルキウは彼女が生まれ育った街、ハルキウを見捨てて離れるわけにはいかなかった。

 

 彼女の死が特別なのではない。ロシア軍の侵攻以来、無惨に失われてきた数多くの命の中の一つだ。ただユリヤ・ズダノフスカの精神と行動は、私には心に感じるものがあった。彼女は私の中の英雄だ。

 

電子証明書のスマホへの格納はマイナンバーカードがなくてもできるように

 最近、こういうニュースがあった。

スマホにマイナンバーカード搭載、22年度中にもAndroidで実現へ - ケータイ Watch

 マイナンバーカードをスマホに入れる、という話自体はもう何年も昔からあったが一向に進んでいなかった。それが漸く2022年度中には実現するのか、という期待を抱かせるニュースである。「マイナンバーカード機能を入れる」となっているが、実際にはマイナンバー部分をスマホに搭載するのはまだ先の話で、今年度中に入れようとしているのは電子証明書だろう。

 一方で、このニュースの中で気になることがある。それはマイナンバーカードをスマホの中に入れるに当たってプラスチックマイナンバーカードが必要になる、ということである。これはかなり由由しき問題だ。

 

 数か月後、「マイナカード(電子証明書)がスマホに入れられるようになりました」というニュースを聞いた人。

「あら、これは便利ね。ぜひ使ってみたい」

役所に問い合わせる。

スマホ電子証明書を入れたいんですけど」

役所の人「マイナンバーカードはすでにお持ちですか?」

「いいえ、持ってません」

「では、先ずマイナンバーカードをお作りください」

「どうすればいいですか?」

「厳格な本人確認が必要なので役所までお越しください」

役所まで足を運ぶ。

「来ました」

「では、先ずあなたのマイナンバーカードをお作りします。少々お待ちください。・・・できました。そのカードをスマホに当ててください。そうです。これであなたのスマホの中に電子証明書が入りました」

「ありがとうございます。スマホの中に電子証明書が入っていれば充分なので、このプラスチックマイナカードは要らないんですけど」

「では捨ててください」

今作ってもらったばかりのプラスチックマイナカードをゴミ箱へぽいっ。

 

 これはあきらかに無駄なプラスチックごみを増やしている。しかしこういう人が現れるであろうことは今の時点からでも十分想像できる。なぜ「プラスチックマイナカードが前提として必要」などというおかしな仕様にしてしまっているのか。

 もちろんオンラインで申請するときに厳格な本人確認が必要だから、という理由はわかる。だが、市役所の隣に住んでる人が窓口に赴いたときはどうなのだ。本人がパスポートやら免許証やらわんさか証明書類を持って窓口に来ているのだから、これ以上の厳格な本人確認はない。で、本人が「スマホ版がほしい。プラスチックカード版は要らない」と言っているにもかかわらず、一旦プラスチックカードを発行しなければならないというのは、なんとも阿呆らしい仕様だ。本人が望むなら、プラスチックカードは発行せずに電子証明書を直接スマホの中に入れてやれるようにすべきだ。

 

 何の話かピンとこない人はみんな、モバイルSuicaを思い出してほしい。Suicaにはプラスチックカード版のSuicaと、スマホ版のSuicaモバイルSuica)がある。二つ持っている人もいるかもしれないが、スマホの中にSuicaが入っていればそれで充分で、プラスチックのSuicaは要らないと思う人も多いだろう。で、JRにモバイルSuicaの発行を申し込んで、「まずは一旦、プラスチックのSuicaを発行してください」と言われたらどう思うか。「次にそのプラスチックSuicaからスマホにデータを移行します。これでスマホの中にSuicaが入りました。」「プラスチックカードのSuicaは要らない?ではどうぞお客様自身で捨ててください」。

 

 これはなんとも馬鹿らしい話だ。今ならまだやり直せる。総務省、デジタル庁の関係者の人、もしこれを読んでいたらどうか考え直してください。

 

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現代日本の「本」をめぐる危機的状況

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 本が減っている。本にアクセスできなくなっている。
 
 ウェブ上で文章がたくさん読めるようになった現代でも、本は知にアクセスするための重要なツールだ。
 
 だが現代の日本で、私たちは急激に本を読むことができなくなっている。読みたい本がどうやっても読めないという状況が立ち現れている。
 
 「あの本、捨てなきゃよかった」と言っている人がたくさんいる。これからはデジタル化の時代だから本なんか思い切って断捨離してしまっても後で電子化されたものを買い直せばいつでもまた読める、と思っていたのだ。だが電子化はされなかった。あの時捨ててしまった本はもう二度と読めないのだ。
 
 先日、母校の大学図書館に行った。学術書などは大学図書館レベルの図書館に行かなければなかなか置いてない。が、Covid19対策で卒業生の入館はお断り、とのことだった。なるほどもっともなことだ。在校生でさえ入館にあたって距離を取るように言われているのに卒業生など受け入れる余裕はないだろう。だが大学図書館の「利用資格」の中には卒業生が含まれている。私は利用資格がある人なのに図書館を利用できないのだ。図書館の中にある本が電子化されていたなら、私は建物の中に「入館」することなく自宅に居ながら本を借りることができていただろう。
 
 2010年頃だったか、「電子書籍元年」と言われた年があった。さまざまな電子書店や電書リーダーが登場し電子書籍ブームが起こった。だが私はそのとき電子書籍に手を付けなかった。ラインナップがあまりにも貧弱すぎたからだ。
 
 私はその後もずっと「紙の本派」だった。紙の本のほうが好きというわけではなく、紙でしか読めない本が圧倒的だったからだ。それから11年が経ち、私はそろそろ電子書籍の状況はどうなっているだろうかと思い、日本の代表的な電子書籍屋であるAmazon、Kinoppy、hontoを覗いてみた。11年ぶりに覗いてみた電子書籍屋には相変わらず私の読みたい本はまったく売っていなかった。
 
 日本の代表的な新書11社について、新書の最新刊4冊が紙版だけでなく電子版も用意されているかどうか調べてみた。
 
PHP新書 4/4
NHK出版新書 4/4
集英社新書 4/4(やや遅れて)   
文春新書 4/4
 
 上記11社中8社は紙版に併せて電子版も売っていた。筑摩書房も4冊中3冊は電子版が作られていた。だが新書の世界でもっとも古い歴史を持つ岩波書店は0冊、中央公論新社は1冊という有り様だった。
 
 本屋にも売ってない、図書館でも読めない、いったい現代の私たちはどこで本が読めるのだろう。なぜ、出版社、本屋、図書館は、本の電子化に取り組まないのだろう。
 
 関係者が電子化に取り組まない言い訳を並べ立てているのを見たことがある。曰く、
「取次が」
「慣習が」
「コストが」
著作権が」。
 
 今までの慣習がどうとかコストがどうとか言うのは、極めて小さな了見に囚われているとしか思えない。当然にやるべきことをやらないで「本が売れなくなった」と言って嘆くのは滑稽なことだ。
 
 昨年10月からAmazonがODPのサービスを日本で始めた。今までも電子書籍は自己出版できる仕組みがあったが、紙の本も出版できるようになった。日本の出版社が「コストが、コストが」と言っている内に、世の「著者」たちはこうした仕組みを使って自己出版をするようになるだろう。電子で出版するという最低限やるべきことをやらないのなら出版社を通じて本を出版する意味がない。
 
 また、「著作権が」という言い訳もおかしい。過去の作品ならいざ知らず、現代の、今活動中の著者の作品については単に著者に対して電子でも出版するということに同意してもらうだけだ。過去の作品に関しては、著作権法の縛りがあるならもっと業界全体で積極的に法律の改正を訴えていくべきだ。「あの先生は紙での出版には同意していたが電子での出版には同意していなかったから」というのは何とも奇妙な話に聞こえる。私は江戸時代の本をよく読むが、「江戸時代の作家先生は和紙での出版には同意していたけれど洋紙での出版には同意していなかったから」という理由で洋紙の本で出版できない、などという話があるだろうか。
 
 「わざわざ電子化するのは大変なんですよ」と言う人もいるが、私はそうは思わない。あなたが「個人出版社」だとして、著者から受け取った原稿データをブログのような定型の「型」に流し込むのと、プリンターで紙に印刷してその紙を製本するのと、どっちが「わざわざ」と感じるか。
 
 日本は米、欧、中、韓に比べても圧倒的に書籍の電子化率が低い。ちなみにここで言う書籍とは文字の本のことだ。日本は漫画の電子化率は高いのでそれが全体の電子化率を少し押し上げている。
 
 昭和時代ぐらいまでは、地方の人は大型書店や大きな図書館がないから、本を読みたくても本にアクセスできない、という問題があった。そして今、デジタルの時代になってからもう何十年も経つが、今は都会の人であれ田舎の人であれ本にアクセスできない時代になっている。街の書店はどんどん潰れ、その代わりとなるべき電子書店、電子図書館はまったく育っていない。
 
 これは音楽やテレビ番組でも同じことが言える。なぜ過去の音楽やテレビ番組は自由に聞いたり見たりすることができないのだろう。所謂“版権”を持っているはずのレコード会社は過去の楽曲を販売しない。テレビ局も過去のテレビ番組を販売しない。「著作権」や「肖像権」あるいは「忘れられる権利」を主張する人がいるかもしれないが、忘れられる権利に対しては個別に対応すべきで、基本的には一旦世に出た作品は自由に視聴できるべきである。
 
 テレビはYouTubeに人気を奪われていると言う。当然だと思う。YouTubeは過去作品も削除されず全て自由に視聴できる。Google社が何ペタバイトなのか何エクサバイトなのか知らないが、厖大な容量の保管庫を持ち、過去映像を全部保存して閲覧できるようにしている。なぜTV局は同じようにやらないのだろう。もちろん無料でとは言わない。過去のすべてのTV番組をオンデマンドで有料で、人々の好きな時に視聴できるようにすべきだ。
 
 「売れないものを販売するのはコストが・・・」と言うのかもしれない。しかしコストがかかるか?単にデジタルデータを保持しておくだけの話だ。そしてそれを見たいと言う人がいたら有料で販売すればいい。過去の全作品にアクセスできるとなったら、音楽の世界やTVの世界は人気を盛り返すだろう。「デジタルデータを保管しておくのもタダじゃないんですよ。物理的なハードディスクとかが必要になってくるんですよ」と言う人がいるかもしれない。しかしGoogle社が保管している何億ものデータは動画データだ。それにくらべたら出版社が保有するのは主にテキストデータなのだから動画にくらべたら全然容量を喰わないはずだ。
 
 電子で出版するというのは出版社が果たすべき当然の使命だ。出版社、本屋、図書館等、本に関わる関係者は本の電子化についてもっと真剣に取り組まなければならない。
 
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大学入学共通テスト最低平均点問題から見る日本の世代間格差に対する鈍感さ

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 令和4年度の大学入学共通テストの数学1Aの平均点が史上最低になったとの報道があった。前身のセンター試験時代を含めて最低とのこと。

共通テ、7科目で平均が過去最低 最終集計を発表、数1・Aなど:東京新聞 TOKYO Web

 

 私はこの問題はもう大分昔から指摘している。

 が、それからちっとも事態は改善されていない。世間がこれを大きな問題と見做さず放置しているからだ。

 この手の問題に対するよくある声は、「問題が難しかったのは他の受験生も同じ。あなただけじゃない」、「条件はみんな一緒」という暴論である。

 「難しい問題の方が得意」、「易しい問題の方が得意」というタイプの人がいる。どういうことかと言うと、例えばここに30人のクラスがある。難しい英語のテストと易しめの英語のテストを実施する。「私はこのクラスでは英語のテストはいつも15 ~20位くらいでそれより上にも下にも行きません」という「不変」の人もいる。「難しい問題の方が得意」というタイプの人は難しめのテストでは30人中5位になるが、易しめのテストでは22位になる。逆に「易しい問題の方が得意」なタイプの人は難しめのテストでは25位だったのが、易しめのテストでは6位になったりする。同じクラスの同じメンバーで受けたテストである。問題の難易度で大きく順位が変動するタイプの人というのはいる。「テストの難易度は関係ない」だとか、「すべての人に平等に影響する」と言うのであれば、このように大きく順位が変動する人はいないはずである。

 

 これはテストに限らず、もっと多くのことについて言える。例えばマラソン。「このコースは上り坂が多いだって?そんなことに文句を言うな!上り坂がきついのは皆同じ。条件はみんな一緒」。

 そんなことはない。上り坂は確かにきつい。すべての選手が上り坂ではペースダウンする。だがそのペースダウンの幅が違う。上り坂を異常にきつく感じてしまう選手もいれば、上り坂で他の選手がバテることを大チャンスと感じる上り坂が得意な選手もいる。マラソン選手たちは、自分が上り坂が得意なタイプか、それとも平地で力を発揮するタイプかを分かっているので、自分に合ったコースの大会に参加する。「自分は上り坂が苦手だ」という自覚がある選手は、わざわざ上り坂が多いことで有名な大会は選ばない。

 

 高校生は皆、共通テストの難易度を知った上で受験しに来ている。これぐらいの難易度だったら自分に合っていると思ってプランを組んでいるのだ。蓋を開けてみたら難易度が過去のものと大幅に違っているというのは、マラソンコースが当日に大幅変更されるようなものだ。「共通テストがこんなに難しい(易しい)んだったら、私大の方を受けておくんだった」とか、全体の受験計画、進路計画が大きく変わってくる。

 こんな酷いことは許されないことだ。

 だが、この問題は糾弾されなかった。ネット上で少し批判の声も見たが、ほんの少しだけで、大学入試センターに対する大きな糾弾の声にはならなかった。

 なぜか。それは、日本人が世代間格差に対する感覚が鈍感である、ということが上げられると思う。

 日本には、「戦争世代」とか「氷河期世代」のように、特定の「はっきりと不幸な世代」というものが存在する。共通テストでも、同一年度内の格差については是正しようとする。例えば公民で現代社会を選択した人と倫理を選択した人とで大きな不公平が生じないように得点調整を行ったりする。だが違う年度間の不公平についてはほったらかしである。去年は易しく、今年は激ムズ、という不公平を誰も問題として取り上げない。

 こういうところに、私は日本人の、世代間格差に対する恐ろしいまでの鈍感さを見る。この鈍感さこそが戦争世代や氷河期世代といった不幸な世代を生み出し、そしてこれからも生み出し続けていくのだろう。

 

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【将棋】佐藤康光九段・順位戦の不思議

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 将棋界に佐藤康光という棋士がいる。いわゆる「羽生世代」の一人で、90年代には名人になったこともある。私の好きな棋士の一人だ。(将棋界には佐藤姓が多いので以降「康光九段」と書いたりする。)

 

 この佐藤康光九段の順位戦の成績を見ていて、とても珍しい不思議な現象に気づいてしまった。もう今から5年以上前から気づいていて、それからずっと佐藤康光九段の成績に注目している。それは、康光九段の成績がずっと“中くらい”という不思議である。

 

 

 この記事を興味を持って読みに来た方には今さらかもしれないが改めて順位戦の説明をしておこう。将棋の順位戦とは名人の座を目指してほぼ全員の棋士が一年かけて戦うリーグ戦である。A級を一番上とし、B級1組、B級2組、C級1組、C級2組と続く。ピラミッド型で、一番下のC級2組は大所帯だが最上位のA級はたったの10人しかいない。佐藤康光九段はこの最上位のA級に在籍しているトップ棋士である。

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 先日、羽生善治九段が長年在籍していたA級から陥落した、というニュースがあった。羽生九段の今年度の成績は2勝7敗。羽生九段と言えば康光九段と同世代で小学生時代からのライバルだ。将棋史上最も偉大な棋士の一人だがそんな羽生九段でさえ陥落してしまうほど、A級に留まり続けるのは難しい。そんな中、康光九段は1996年度にA級に上がってから、もう26年間もA級にいる。2009年度に一度陥落したが一年ですぐにA級に復帰している。羽生九段がいなくなって突出した最年長になった。

 

 A級は10人で一年かけてリーグ戦を戦う。そこで一位の成績をとった人が名人への挑戦権を獲得する。下位2名はB級1組に降級となる。来期(来年度)はB級1組で上位2名になった人と入れ替わる。たった10人しかいないのに下位1名ではなく下位2名も降級してしまうというところがポイントである。つまりA級の10人というのは固定メンバーではなく、毎年かなり顔ぶれが入れ替わっている。下のクラスから上がってくる2人は大体勢いに乗っている強敵である。

 

 10人しかいないと、成績上位の挑戦権争いか成績下位の降級争い(残留争い)のどちらかに巻き込まれる確率が高い。今期2021年度は斎藤九段が独走して8勝1敗の成績で名人挑戦権を獲得したので争いは起こらなかったが、例年は2人か3人の人が最後まで挑戦権争いを繰り広げることが多い。一方の残留争いだが、これは降級が2名もいるので、例年4人ぐらいの人が最後の最後までA級残留をかけた必死の争いを繰り広げる。つまりA級では、ちょっと勝ちが込むとすぐに挑戦権争いに否応なしに関わることになるし、ちょっと負けが込むと今度は否応なしに残留をかけた争いに巻き込まれる。どちらの争いにも関わらない人というのは三分の一の3人か4人くらいしかいない。

 

 と、いう前提を知った上で、ここ11年の康光九段のA級順位戦の成績を見てほしい。

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 直近11年(2011年度から2021年度まで)の康光九段のA級順位戦の成績である。ほとんどが「5勝4敗」もしくは「4勝5敗」という成績である。2016年度に「3勝6敗」、2017年度に「6勝4敗」という成績があるが、「7勝2敗(2勝7敗)」や「8勝1敗(1勝8敗)」、「9勝0敗(0勝9敗)」という偏った成績の年がまったくない。ずっと勝率がちょうど5割くらいなのである。(さらに言えば「5勝4敗」の数と「4勝5敗」の数もほぼ同数である。)1年かけて他の9人と戦うので9回戦まである。奇数なので完全な勝率5割にはならないが、しかしほぼ完全に近い。これはある意味、珍記録だと思う。こんな珍しい記録があるだろうか。

 

「トップのA級に在籍しているということは充分強いのでは?」

 確かに、めちゃくちゃ強い。そんな鬼のように強い人が、なぜ11年間も一度も挑戦者にならず、そればかりか挑戦権争いに絡んだことすらほとんどないのか。

 

「中くらいの成績をキープしようとしているのでは?」

 それはない。みな名人を目指しているし、言うまでもなくA級は天才だらけ。ほんの僅かでも気を抜けば一気に転落する。すべての棋士は命懸けで戦っている。中くらいの成績は狙って取れるものではない。中くらいの成績はあくまで全力で戦った結果なのだ。

 

「他にも中くらいの成績の棋士はいるのでは?」

 確かに一年単位で見れば、他にも中くらいの成績の棋士はいる。しかし、11年もの長きに渡って中くらいの成績を取り続けている棋士佐藤康光九段をおいて他にはいない。たった10人しかいないA級で。

 

 下図は左が2011年度のA級順位戦メンバー、右が2021年度のA級順位戦メンバーである。

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 顔ぶれが大きく変わっているのが分かるだろう。10年前にいた人は羽生善治渡辺明しかいない。その羽生九段も来年度はA級にいない。これだけ浮き沈みの激しいA級において、浮きもせず沈みもしない佐藤康光九段とはいったい何者なのか。

 

 昨日、2021年度のA級順位戦最終局が一斉に行われ、康光九段は4勝5敗の成績に終わった。2月4日に8回戦が行われ、その時点で康光九段は4勝4敗だったので、最終局は勝っても敗けても“真ん中”の成績になった。今年度も挑戦権争いにも降級(残留)争いにも関わらなかった。

 

 

 世間の将棋ファンは、上位の昇級争いか下位の降級争いに注目する。だが私は“真ん中”に注目している。誰も見ていない真ん中に「佐藤康光」の名前がいつもそこにある。毎年顔ぶれの違うA級において常に「5勝4敗」か「4勝5敗」という“真ん中”の成績を取り続けるというこの珍しい現象に気づいているのはひょっとして私だけなのではないかと思い、どうしても書きたくなって書いた。

 

 この珍しい記録?はいつまで続くのだろうか。個人的には佐藤康光九段を応援しているので、もう一度「佐藤康光名人」を見たいと思っているのだが。

 

 

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18歳以下10万円給付批判

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 こんなふざけた政策はない。
 
 10万円は子どもに渡されるわけではない。実際に受け取るのは親だ。結婚もできて子宝に恵まれている人が10万円を受け取れて、結婚もできず子どもも持てない恵まれない人が10万円を受け取れないなんて、そんなあべこべな話があるか?
 
 給付金というのは恵まれない人から先にやるのが当然で基本のことだ。こんな基礎基本のことすら間違ってできていない背景を考えると、さらにその前提となる誤認識が透けて見える。
 
 「今どきの若い人たちは結婚をしたがらない。子どもを作りたがらない。だから日本は少子化になる」という誤認識だ。そして今度の10万円をインセンティヴにしようとしている。「ほらね、結婚して子ども作ってると良いことあるでしょ?」というわけだ。
 
 大なる誤認識。結婚できないのは金が無いから結婚したくてもできないのだ。特に男性はそうだ。高年収の人の方が結婚できる。「18歳以下の子どもに10万円」は、そういう人たちに優先的に給付金をあげましょうと言っているのだ。世の中のどこを探せばこんなおかしな話があるのか。
 
 お見合いであれ、合コンであれ、マッチングアプリであれ、婚活市場において低年収の男性たちは「論外」と言われ門前払いを喰らっている。年収300万円以下、200万円以下の男性たちは、お見合いの結果を断られているのではなくお見合いのセッティング自体を断られているのだ。
 
 もちろん、結婚して子どもがいる人の中にも貧しい人はいるが、基本的には現代の日本においては結婚できている人は恵まれている人である。
 
 これは愚策ではなく悪策である。家に18歳以下の子どもがいる人と言ったら、大体40代~50代の人たちで、現代の日本の中心層だ。だからこの悪策に対して大きな反対の声は出て来ないし、政府も人気取りのためにこのような悪策を決行するのだ。
 
 不道徳で非倫理的かつ非人間的である。心が痛まないのか。
 
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COVID-19対応に見る日本人のイン意識とアウト意識のアンバランスさ

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jacqueline macouによる画像
 
 COVID-19にかかる対応、特にオミクロン株の急速な蔓延に伴う対応で、岸田総理が外国から日本への入国を全面禁止にしたことが「英断」だとして多くの国民から拍手喝采を浴びた。
 
 「現代の鎖国だ」と言う人もいた。だが、私はそうは思わない。江戸時代の鎖国は入国だけではなく出国についても厳しく管理していたのだ。
 
 なぜ入国だけなのか。
 
 皆、オミクロン株やデルタ株などウイルスに感染してるかもしれない外国人が日本に入って来るのは嫌だと言う。だが日本からどこかの国に出国するということは、外国からしてみればウイルスに感染してるかもしれない外国人(日本人)が自分たちの国に入って来るということなのだ。どうしてそれが分からないのだろう。
 
 「水際対策が大事」と言う。それは反対ではない。しかし入国だけではなく出国のことも考えるべきだ。
 
 私は、ウイシュマさん事件とカルロスゴーン事件を思い出す。日本は、外国からやって来たウイシュマさんを「不法入国だ」と言って徹底的に小突き回し死に追いやった。一方、カルロスゴーンはこちらも「不法」出国だが、これは堂々と見逃した。
 
 ここに日本人の妙な“イン”意識と“アウト”意識のアンバランスさを見る。
 
 “イン”に対しては過敏だが、“アウト”に対しては鈍感なのだ。ウイシュマさん事件とカルロスゴーン事件が象徴的である。
 
 そして今回のオミクロン株大流行への対応でもそうだ。自分たちが外国人が日本に入って来るのが嫌だと感じているのなら、相手国も日本人が入って来るのが嫌だと思われる可能性にどうして思い至らないのだろう。
 
 COVID-19対策はインとアウトとセットで考えなければならない。これだけの世界規模の感染で「日本だけ平和」などということはあり得ない。もっと小さなスケールで考えても、感染症は家庭、学校、職場など、自分の周囲で拡まってしまったら逃れるのは難しくなる。「感染らない」ことも大事だが「感染さない」ことも大事なのだ。インばかりでなくもっとアウトに注意を向けなければいけない。
 
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