漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

問われないゴーン出国見逃しの責任

 
 不思議な光景だった。
 
 昨年2019年末にゴーンが出国してレバノンにいることが明らかになった時、弁護団法務省も外務省も政府も、関係者は一様に「寝耳に水」「まったく知らなかった」と言った。
 
 責任者なのに「知らなかった」と言うことをまったく恥ずかしいとも思っていない。
 
 弁護士仲間たちは、「ゴーンが100%悪いと言いたい。でも、そうとも言い切れない気持ちもある」と言った。「そうとも言い切れない」の部分は、「日本の司法制度や検察の在り方にも問題がある」ということだ。
 
 弁護士仲間たちの言い分は、「ゴーンが100%悪い派」か「ゴーンが97%悪いが3%ぐらいは日本の司法制度も悪い派」か、あなたはどちらですか?という二択を迫るものだ。驚くべきことにこの二択の中には、ゴーンをちゃんと見てることを条件に保釈させたのにミスミス見逃した弁護団の責任が1%も入っていない。
 
 ところで、法務省の「入国管理局」というものはない。昨年2019年の途中まではあった。今は「出入国在留管理庁」と名前が変わっている。名前の中に「出国」が加わった。今まで67年間も「入国」という名前だったのに「出入国」と名前を変えた途端にゴーンの出国を許した。
 
 出入国在留管理庁は法務省の外局で、そのトップの森法相がゴーンの記者会見に対して「到底看過できない」と言った。関西国際空港からの飛び立ちは堂々と「看過」したのに。
 
 忘れている人も多いだろうが、難民申請などをして日本にやって来た人たちの着替えやトイレまで監視していることが問題になったのはつい最近のことだ。
 
 弱い者に対しては着替えまで覗き、強い者(VIP)に対しては「どうぞお通りください」。この露骨な態度の違い。そして、この出入国管理局の“醜さ”を誰も批判しない。
 
 弁護士たちはゴーンに同情するばかりで、出国を許した責任を問わない。政府はもとよりだんまり。国民の中にも「我が国は三権分立なのだから政府がこの件に口を出すべきではない」というおかしなコメントをしている人がいる。政府に司法判断に口を出せと言っているのではない。「管理庁」がきちんと「管理」をできていなかったのだから、その責任は問われなければいけない、と言っている。
 
 出入国在留管理庁ばかりではない。税関も同じである。NHKの報道によれば、税関が「中身は音響機器」という説明を信じ中身を調べるのを怠ったという。
 税関は財務省の管轄である。その財務省のトップは誰であったか。なぜ財務大臣は黙っているのか。
 
 ではここで、今回のゴーン出国見逃し事件を起こした出入国在留管理庁(前・入国管理局)と大阪税関が過去にやってきたことを見てみよう。(いずれもWikipediaより) 
2014年11月に東京入国管理局(現 :東京出入国在留管理局の収容施設で死亡したスリランカ人男性は、胸の痛みを訴え治療を求めたが病院には搬送されず数時間後に急性心筋梗塞により死亡。
2017年3月に東日本入国管理センターで死亡したベトナム人男性は収容当初から体の痛みの訴え3月17日には口から泡と血を吐き失神する症状が出るも病院で治療を受けられず
2011年5月に同税関関西空港税関支所が、覚醒剤約1.2kgを密輸入したとされたウガンダ国籍の男性2人から覚醒剤を押収したが、この際に職員らが、エックス線検査への同意書への署名を求めるに当たり、「早く書け、おら」などと、厳しい口調で執拗に署名を迫った
2017年1月17日21時頃に、関西国際空港第2ターミナルで2、同空港発香港行ピーチ・アビエーション機の最終便の離陸直前に、搭乗した家族の女性が、乗客に書類を渡すよう、同税関関空税関支所の職員に依頼。その際、職員は保安検査を受けさせることなく、女性を出国審査場まで通過させていた
 
 「小物」に対しては「おら!」などと強い態度で臨むが「大物」に対しては手を擦り合わせながら「どうぞお通りください」という態度。
 
 この醜さを誰も糾弾しない。
 
 この「ゴーン出国見逃し」を誰も追及しない。本来追及しなければいけないはずの野党も。野党や野党支持者層は「むしろゴーンに同情する。中世のような酷い日本の司法制度から逃げることができてよかったね」と思っている。
 
 一方、与党およびその支持者層はもとより追及しない。出入国在留管理庁は法務省の所管でありそのトップである法務大臣の責任が問われるからだ。税関は財務省だから財務大臣にも、そして外務大臣、それらの大臣の任命責任がある総理大臣の責任にも話は及んでくる。
 
 マスコミが法相の責任を問うていた時に、国民が「だって正月休みだったんだから仕方ない」と言っている呆れたコメントもたくさん見た。まさにその年末年始の警備の薄さを突かれて出国されたのではないのか。
 
 沈黙している与党政治家たちの無責任、関係省庁の無責任、弁護団の無責任、「日本の司法制度にも問題がある」と別の問題を持ってきて見逃しを問わない野党と支持者たちの無責任、「正月休みだったから仕方ない」などと呑気なことを言って問題を問わない国民の無責任。
 
 ゴーンはこの無責任大国の間隙を突いて、と言うよりは大きな穴から堂々と出て行ったのだ。
 
 すべての関係者が(知らなかったなんて恥ずかしくて言えない)という気持ちは微塵も持たず、「私は逃亡計画なんて知りませんでした。逃亡計画に加担していません。なので全然無関係です」と真っ先に自己保身の表明を口にする日本人。
 
 「巻き込まれなくてよかった~」と内心ホッとしているのだ。
 
 ヘタに捕まえに行こうとすると、捕まえられず取り逃してしまった時に国民から責任を追及されるから、相手がこういう大物の時は、最初から「それは自分の担当の仕事ではありません」という顔をしておいた方がいいのだ。
 
 皆そう思っている。
 
 ゴーン出国見逃しの責任は問われることがない。
 
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高校ラグビー改善案

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 昨年2019年は、日本はラグビーワールドカップが開かれ大いに盛り上がった。ワールドカップ開幕前日まで、ラグビーのことなどほとんど話題になっていなかったので、開幕後の盛り上がりには驚いた。
 
 私は昔からラグビー、特に高校ラグビーが好き、だった。だが近年の高校ラグビーの在り方には思うところがある。高校ラグビーの「関西偏重」についてである。
 
 例えば、2019年度の全国高校ラグビー大会は、ベスト8の内、5校が関西の学校だった。また、全国大会ではほとんどの県は代表が1校だが、大阪府だけは3校も出る。(東京都と北海道は2校。)
 
 東京都は学校の数が多いから、北海道は広すぎるから、という理由であることは解る。大阪府は何故3校も出場枠があるのか。それは大阪はラグビーのレベルが高く、強い学校が多いからである。毎年、第1代表、第2代表、第3代表の3校が全国大会のいいところまで行く。(2019年度は3校ともベスト8以上に行った。)
 
 大阪だけでなく、京都や奈良も強く、ここ20年くらい関西勢が成績上位を占めている。
 
 高校ラグビー界はなぜこんなに関西に偏っているのか。
 
 その理由の一つとして考えられるのは、会場が大阪の花園ラグビー場であることだろう。やはり地元は強い。ホームであれば気合いも入る。
 
 だが、東京や埼玉が会場になっている高校サッカーは関東偏重にはなっていないし、甲子園(高校野球)もそれほど関西偏重ではない。
 
 昔は、秋田工や大分舞鶴など、地方に強い学校がたくさんあった。ここで言う地方とは関西から見た地方、即ち関東、東北、九州などである。しかしそれら地方の学校は年々勝てなくなり、いつしか全国大会の上位は関西の学校が占めるようになった。
 
 その原因の一つはTV放送にあるのではないかと私は考えている。
 
 TV放送は大阪のMBS毎日放送)で、東京では系列のTBSが放送している。だが、そのTVでの取り上げられ方は、過去どんどん減少してきた。
 
 私の住んでる東京では、昔は準々決勝以上の試合を見ることができていた。それが準決勝以上、決勝のみという風に縮小されていった。また、放送時間は昼間だったのが深夜0時から1時頃という誰も見ない時間帯に移動し、フルで見ることのできていた試合もハイライトシーンのみになっていった。
 
 メインのTV局が大阪のTV局なので、関西ではもう少し見ることができているらしい。
 
 つまり、毎冬地元で開催され、TVでも他の地域よりは試合を見ることができる関西では高校ラグビーは盛り上がり、それを見て育った子どもがラグビーに憧れてラグビーを始め、競技人口が増えれば強い子が現れ、関西の学校はますます強くなる。快進撃を見せる地元の高校に関西の人たちは熱狂して、ラグビーを始める子が増える。という好循環になっている。
 
 そしてその関西圏内の強いサイクルのせいで、地方との実力差はどんどん開いていく。
 
 2019年は、ラグビーワールドカップにおける日本代表チームの大活躍で急にラグビーファンになった人が増えたが、今後も日本のラグビーが強くなっていくためには、高校ラグビーの裾野を広げねばならず、そのためには全国的な活性化が欠かせない。
 
 現在の「関西の関西による関西のための高校ラグビー」から、全国の高校が活躍する高校ラグビーに変えていかなくてはならない。
 
 そこで改善案を五つほど。
 
一、TBSが全国の系列局を使って全国の大体の県で試合を見られるようにする。
二、少なくとも準々決勝以上は生放送する。(サッカーは1回戦や2回戦あたりでも好カードの試合は放送している。)
三、1回戦や2回戦をダイジェストで放送するにしても、深夜ではなくもっと早い時間にする。
 
四、MBS、TBSがこれをできないのだったら、放映権をNHKに渡してNHKで放送する。
 
五、これでもまだ期待した効果が見られなかったら、メイン会場を花園から東京の秩父宮ラグビー場に移す。
 
 四つ目は劇薬、五つ目は奥の手である。
 
 だが、これぐらいのことをしないと、もう20年近く続いている「関西偏重」は変わらないのではないかと思う。
 
 日本のラグビーが今後も世界で活躍していくためには全体的な底上げが必要で、そのためには「関西の大会」化している現在の全国高校ラグビー大会を「全国の大会」にしていかなくてはいけない。
 
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ゴーン出国事件に見る日本の2つの病理

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 2019年大晦日カルロス・ゴーン被告(以下、ゴーン)が日本を出国してレバノンにいる、というニュースがあった。
 
 この事件を受けて、NHKがゴーンの弁護を担当する弘中弁護士にインタビューしたニュ―ス。ゴーン被告の弁護士が取材に応じる「寝耳に水でびっくり」 | NHKニュース
 
 このニュースに対して、NewsPicksで肩書きが「弁護士」となっている人たちによる同業者擁護の意見の数々。
 
「当然だろう。一私人たる弁護士がゴーンの逃亡を完全に防ぐことは不可能である。」
「事前に知らされていた筈がないです。」
「弘中弁護士が知っているはずがないです。」
「当然、知らないでしょう。せっかく勝ち取った保釈だったのに、海外逃亡をされるというのは弁護士にとって裏切られたようなものですから。私には幸いにして経験がありませんが、保釈中の被告人に逃げられて「メンツ丸つぶれになった」と嘆いていた弁護士が何人かいました。」
 
 知っていたか知らなかったか、が問題なのではない。コメントを求められて「寝耳に水でびっくりした」などという、そこら辺の通りすがりの一般人のようなコメントをしていることが問題なのである。そこら辺を歩いている一般人に「ゴーンがレバノンに出国したそうですけどどう思いますか?」とインタビューしたら、「びっくりした」「驚いた」と皆言うだろう。
 
 責任の一端がある関係者でありながら、そこら辺の一般人のようなコメント。またその酷いコメントに対する同業者たちのこれまた酷い擁護コメントの数々。「裏切られた」とか、急に被害者のような物言い。
 
 弁護士たちは一体何のために仕事をしているのだろう。「メンツ丸つぶれ」。ああ。言っちゃった。正直と言うのか何と言うか。この人たちは自分のメンツのために仕事をしているのか。そこら辺の一般人と同じことしか言えないなら弁護士の資格を返上したらどうか。
 
 法律家たちは、何か出来事に対してコメントを求められた時に「罪に問われる可能性があります」とよく言う。私はそれを聞くたびに何とつまらない戯言だろうと思う。罪に問われたら何なのだ。罪に問われようが、それは罰を伴う、ということとセットになっていなければ意味はない。罰が伴わないのであれば、法を踏み倒す方法があるのであれば、人は法律を無視するだろう。ゴーンにとっては端金のたった15億円だかの金を払えば堂々と逃げさせてもらえるのなら逃げるだろう。
 
 また、これは、12月31日昼頃の第一報に近いニュースで、NHKが“関係者”たちにコメントを取って回ったもの。ゴーン被告 出国か “レバノン到着”報道 保釈条件は渡航禁止 | NHKニュース
 
弁護団「何も知らない」
検察幹部「把握していない」
法務省幹部「確認中」
外務省幹部「把握していない」
日産幹部「驚いた」
 
 見事なまでの、把握していない、驚いた、のオンパレード。これが日本の無限無責任の体系。
 
 NewsPicksに集まっている弁護士たちもおそらく勘違いをしている。「本当は知ってるのに知らないって嘘ついてるんじゃないですか?」と問われていると思っているのだろうか。だから仲間たちまで集まって「本当に何も知らないんだって!」と言っているのか。そうではなくて、「把握しているべき立場なのに『何も知らない』では駄目なんじゃないですか?」ということが問われているのだ。それが解っていないから上記のようなコメントになってしまう。
 
 通りすがりの一般人でも、「ゴーンがどうやって出国したかご存知ですか?」とインタビューされたら「知らない(把握していない)」と言うだろう。
 
 すべての人、機関が、「自分の仕事の範囲はここまで。その先は知ったこっちゃない」という態度である。だからこういう事態が起こっても、みな他人事であり、誰も責任を取ろうとしない。真っ先に「知らない」「聞いてない」と言うことで自分のところに責任が降りかかってこないようにすることを第一に考える。と言うか、それしか考えていない。
 
 この無限無責任の体系が日本の第一の病理。
 
 二つ目は、「長い物には巻かれろ」という諺に表される「弱きに厳しく、強きに甘い」という国民性。
 
 先日の熊澤蕃山の記事でも書いたが、生活保護を受給しているような貧しい人たちに対しては「生活保護なめんな」と言うくせに、相手がゴーンのようなVIPになると途端に何も言わなくなる。ネットでこの事件に対するコメントをいろいろ見てみたが、「映画化決定*1」「何か面白そうなことになってきたな」などと茶化すのが精一杯で、誰も「日本の法律なめんな」とは言わない。こういう時こそ「日本の法律なめんな」というジャンパーを作ってみんなで着たらどうですかね、日本のお役人さんたち。
 
 紛争や貧困に苦しむ外国人が入国しようとして来ることに対しては「不法入国だ」と言ってあんなに厳しく取り締まるくせに、相手がVIPだったら堂々と空港から飛び立たせてあげる。
 
 どこまでも無責任な態度と、強い者に対するほど寛大になる姿勢。この2つの病理を治していかないかぎり、日本の病はますます深刻になるばかりだ。

*1:映画化なんて茶化される前にゴーン側が準備している。

「儒服を着けた英雄」熊沢蕃山と現代の“無告“の人

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目次

 

現代の生活保護バッシング

 貧困と貧乏は違う。
 
 貧乏は単にお金がない、という意味だが、貧困はお金以外にも社会的リソースがないことを意味する。お金だけでなく、人脈、知識、経験、方法、手段、体力、健康がない。
 
 「無告の民」という言葉がある。「告げることができない」、あまりに何も無さすぎて苦しみを訴えることすらできない人、という意味の言葉だ。
 
 この「無告」という言葉がどれくらい古くから使われているかわからないが、江戸時代前期には思想家の熊澤蕃山が著書の中で使っている。
 
 「生活保護バッシング」というものがある。生活保護を受給して暮らしている人たちのことをネット上などで叩いたり馬鹿にしたりすることだ。
 
 以前、NHK生活保護で暮らしている女子高校生が取り上げられたことがあった。取材のカメラが入ったその高校生の部屋にアニメグッズやらエアコンやら、やや高価なものが映っていたことから、炎上に発展し、大きなバッシングが巻き起こった。生活保護を受けるほど「貧しい」はずの人が、なんでそんな高価な物を持っているのか。実際にはそんなに貧しくないのに生活保護の申請をして金を不当にせしめているのではないか。そういう声がネットを中心に起こった。
 
 一頻りバッシングの嵐が巻き起こった後に、「生活保護バッシングは醜い」という反対側からの批判の声も上がった。
 
 NHKで取り上げられた女子高校生の例はほんの一例であって、他にも多くの生活保護バッシングがある。2017年には小田原市の職員が「HOGO NAMENNA(保護なめんな)」などと書かれたジャンパーを着ながら業務を行っていた事件があった。いったいいつから日本人はこんなに醜くなってしまったのだろう。現代の日本人は随分と見下げたものだ。そう思っていた。
 
 しかし最近、江戸初期の思想家、熊澤蕃山の著書を読んでいたら、今の時代の生活保護バッシングとまったく同じような状況を目にし、蕃山がそれを嘆いていた。
 
 日本人のこういう醜い性根は少なくとも400年前からあったわけだ。
 

『集義外書』に見る400年前の“生活保護バッシング”

 現代の生活保護バッシングとほぼ似たようなことが江戸時代にもあった。江戸初期の思想家、熊澤蕃山が著書『集義外書』に記している。少し長くなるが引用しよう。原文では読みづらいと思うので筆者による意訳で紹介する。
 
凶作の年に民が飢えている。職を望む者が男女となく道路に溢れ、「給料はいらないから雇ってご飯をください」とお願いしても、雇ってくれる人は誰もいない。乞食や捨て子をたくさん見ても武士たちは「かわいそう」と言わない。百姓の民が食べるものがなくて草を食べたりすることがある。そんな状態でも乞食にさえならなければ、「ほら、百姓どもは貯蓄があるから乞食にならないのだ」と武士たちは言う。百姓の民はいったいどんな仇があってこんなに憎まれなければならないのか。
武士は安定した給料をもらってるから、たとえ凶作の年であったとしても「難儀だ」と言うだけで飢えることはない。百姓は一年中苦労して作ったものを残らず年貢に取られ、そのうえ年貢が払えない者は催促され、妻子を売らされ、田畑山林牛馬まで売らされて、家庭は崩壊し、流浪し、行方知れずの者は乞食となり、運良く村里に居場所を見つけたとしても、凶作の年には餓死を免れない。ひどいのに至っては、財産の有無に関わらず、水責め、簀巻き、木馬などの拷問にかけられる。これによって、病死したり、あるいは病人になって働くことができなくなってしまうこともあるが、憚られることなので訴えることもできない。百姓の家でも50〜100家の中に1、2家は富裕の家がある。これを見て武士たちは「百姓は生活に余裕があって奢っている」と言っている。豊作の年には薪藁や木の実を売って、祝い事の時には酒肴を求めることもあるだろう。祝いの席には大勢の人が出席するので一つの村から一人か二人ぐらいの出席でも、城下町でこれを見たらたくさんの人が出席しているように見えるだろう。こういう光景を見て武士たちは「百姓たちは蓄えがある」と言う。百姓も人である。こんなことまでしてはいけないというのは、あまりに「不仁(思いやりがない)」である。春から冬に至るまで、朝から晩まで、一年中苦労して、私たち武士を養ってくれている人たちなのだから、そんな百姓の人たちが少しの酒肴を求めるのは本来なら喜ぶべきことなのに、それを非難するのは、武士の品性が下がって卑しくなってしまったからである。武士の若い人たちは、幼い頃から大人たちがそのように百姓を非難しているのを聞いて、そういうものだと思い込んでしまっている。よくよく己の心に省みてみれば恥ずかしいことではないか。社会全体が卑しくなってしまったからだ。嘆かわしいことである。
 
 どこかで見覚えのある光景だ。現代にそっくりである。武士たちが、百姓が祝いの席で料理を楽しみ酒を飲んでいるのを見て、「どこにそんな金があるんだ。百姓どもは困窮しているんじゃなかったのか」と言っている。そういう、武士たちによる百姓バッシングを蕃山は嘆いている。
 
 ふだん生活に困窮している女子高校生の部屋にパソコンがあるのが、一瞬テレビに映り込む。ふだん生活に困窮している百姓がたまに祝事の席で料理や酒を楽しんでいるところが目撃される。その「一瞬」を見た人たち、武士たちが、「どこにそんな金があるんだ。やっぱり困窮していると言っていたのは嘘だったのか」、「貧困詐欺。私たちかわいそうかわいそう詐欺。贅沢する金があるんじゃん」と言う。
 

「儒服を着けた英雄」

 400年前と現代とそっくりである。
 
 蕃山は「なぜ百姓たちはこんな風に言われなければいけないのか」と憤っている。百姓たちだってそりゃ偶にはささやかな贅沢をすることもあるだろう。百姓が祝席で酒や料理を楽しんで何がいけないのか。その程度の楽しみがない人生を誰が耐えられるだろう。ささやかな贅沢を許さず、そのような一端を見て、普段の困窮を嘘だと言う。
 
 自らも武家である蕃山が武士の品性の堕落を批判している。
 
 日本人の性根が400年前から変わっていないことがよく分かる。400年も経って成長なし。生活保護を受給して暮らしている貧しい人たちの映像を見て、「ゲーム機はあるんだ」「スマホは持ってるんだ」「旅行に行くお金はあるんだ」と小さな贅沢を論う。「そういう物を買うお金はあるのに生活保護を受給してるんだ」とイヤミを言う。
 
 蕃山の言葉を借りれば、貧しい人たちが小さな贅沢にありつけたのなら「よかったね」と言ってあげるべきところだ。貧困家庭の人だって現代に生きているのだからそりゃエアコンもスマホも必要だろう。たまには「遊び」もしなければ生きていくのがあまりにもしんどいだろう。
 
 自分たちより上ではなく下の方に攻撃を向ける。これを蕃山は嫌った。蕃山は武士、すなわち自分の身分に厳しい目を向けることができる人だった。勝海舟が「儒服を着けた英雄」と評した理由がわかる。
 

400年変わらない日本人の性根 

 こうして見ると、自分の立場には甘く、自分より下方の人間に攻撃(口撃)の矛先を向ける心根は、昔の日本人も今の日本人も変わっていないように見える。
 
 私が『集義外書』を読んで新鮮に感じたのは、現代の「生活保護バッシング」に見られるような弱者叩きが、400年前にも行われていたことを知ったことだった。しかも、酒肴を楽しんでいる百姓を見て「あの人たちは貧しいと言いながら酒を飲む金はあるんだ」と武士たちがイヤミを言う姿は、現代人が「いま一瞬、部屋にゲーム機が置いてあるのが映った。生活保護を受給していながらゲーム機を買う金はあるんだ」とイヤミをつけるのとまったく同じである。
 
 こうした性根は、日本人が人として落ちぶれてしまったからだと考えていたが、いつの時代にも400年前にもいたということだ。そして蕃山は、そういうことを言う武士を「武士の心くだりて、いやしく成たる」と厳しく糾弾している。
 
 「拷問にかけられ、病気になって働くことができなくなってしまうこともあるが、憚られることなので訴えることもできない。」こうした人のことを蕃山は「無告の民」と呼んだ。誰にも自らの窮状を告げることができない人だ。
 

無告の人にもっと目を向けていこう

「こんな厳しい社会で生き抜いていくには、自分の力で人生を切り拓いていかなきゃ」
「自ら『助けて!』と声をあげなきゃ」
 
 そう言う人もいる。そう言う人は、本当に奈落に突き落とされている人、生き地獄の渦中にいる人は助けて!という声をあげることもできないし、仮にあげたとしても地上まで遠すぎてまったく届かない、誰にも聞こえない、のだということが解っていない。
 
 声をあげる発声機関を持っていない。声が届く範囲のところに誰も人がいない。
 
 「昔はそうだったかもしれないけど、今はインターネットもあるわけだからツイッターとかで声を発信できるじゃないか」と言う人もいる。だがツイッターのフォロワー数は0人なのである。フォロワー数0人のツイッターで声をあげて、いったい誰の耳に届くのか。YouTubeチャンネルを開設しようにもカメラを買う金もない。なんとか動画公開まで漕ぎつけたとしても、高評価ゼロ、低評価ゼロ、コメントゼロ、再生回数ゼロ。YouTubeにもツイッターにもこのような誰にも見られていないアカウントはたくさんある。発信しても誰にも届かない声なき声だ。
 
 「告げることができない」というのは単に「発信できない」という意味ではない。発信できたとしても誰にも届いていないのだったら意味はない。それも「無告」なのである。
 
 現代にもたくさんの「無告」の人がいる。苦しみを訴えることすらできない人々。たまにがんばって発信しても、バッシングによってその声は押さえ込まれてしまう。
 
 蕃山の時代から400年。私たち人間はもうちょっと成長していいのではないか。形を変えて400年前と同じことを繰り返しているのは能がない。
 
 蕃山はこうした無告の人々に目を向けた。そして口ばかりでなく実際に、川の上流に森林を養成したり河川を改修して水害を減らし、人々を苦しみから救う活動をした。
 
 今から400年前の日本に生まれた、この先駆的思想家の視点に現代の私たちは目を向けなければならない。
 
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頭の固い明治時代人とライト兄弟

 
 常識に捉われた物の考え方しかできない頭の固い人間が嫌いである。
 
 何か提案したり批判したりする度に「そんなのは理想論だ」とか「そんなのできっこない」と言う人たちは現代にもたくさんいるし、昔もたくさんいただろう。
 
 彼ら頭の固い現実主義者たちの口ぶりは大抵決まっている。
「そんなのできっこない」
「現実問題として」
「常識的に考えて」
「そんなのは理想論」
 

 
 明治時代の人たちの会話。
 
「というわけで今度みんなでアメリカに行くことになりました」
 
(私は船は苦手なので乗りたくありません)
 
「そんなこと言ってもしょうがないでしょう。船に乗らないでどうやってアメリカに行くんですか」
 
「あなた一人だけ泳いで行きますか?それとも空を飛んで行くの?(笑)」
 
「空を飛ぶなんて無理。人間にはそんなことは絶対できません。」
 
「未来永劫、人間が空を飛ぶなんてあり得ません。ええ、断言できますよ。なぜなら過去、人類の長い歴史の中で空を飛んだ人間なんて一人もいないからです。考えてもごらんなさい。あなたは空を飛べたらいいなと思ってるかもしれないけど、あなたが考える程度のことは、世界にも同じようなことを考えている人が他にたくさんいるんですよ。それなのに現に空を飛ぶ方法は無い。なぜだと思いますか?不可能だからです。これぐらいのこと、私がいちいち説明しなくても、ちょっと考えればわかりそうなものだけど…」
 
「あなたは無知だから知らないでしょうが、大英帝国ニュートン博士という人が『重力』というものを発見したんです。重力という力であらゆる物体は地面に引きつけられているんです。だから人間も飛べないし、機械に乗って空を飛ぶこともできないんです」
 
「もし、人間が空を飛べるんだったら、今ごろ誰かがそういうものを発明して空を飛べてるはずですよね?」
 
「あなたもいい大人なんだからそんな子どもみたいなこと言ってないで、もっと現実を見ましょうよ」
 
「Bさんを見てごらんなさい。あの人だって本当は船は苦手なんですよ。でも文句一つ言ってないでしょ?そりゃ誰だって何十日間も船に揺られるのは嫌ですよ。でもそれに文句を言ったところで始まらないでしょ?」
 

 
 なぜ「始まらない」のか。始まらないのはあなた方のほうだ。
 
 これが日本人。「私は船は苦手です」と言っただけで、方々から「そんなことに文句を言ってもしょうがない」、「もっと現実を見ろ」の大合唱。
 
 そこで、「彼が船が苦手なら、船を使わずに異国に行ける方法をみんなで考えよう!」となぜ言えないのか。
 
 そういう頭の柔らかい考え方ができるのがアメリカ人なんだと思う。アメリカで次々にイノベーションが生まれて日本でちっとも生まれないのは、こういう国民の思考性の違いにあると思う。
 
 ライト兄弟に「人間は空を飛べない」という常識をひっくり返されたにもかかわらず、それでもなお現代の日本人もこの明治時代人たちとまったく同じことを言い続けている。曰く、「そんなことに文句を言ってもしょうがない」「そんなことできっこない」「ちょっとググればわかりそうなものだけど」。
 
 グーグルを万能だと思い、あなたが考える程度のことはグーグルに答えが載っていると言い、グーグルに載っていない=できない、と見做す。「ちょっとググればわかる」などと言っている人間はグーグルの範囲内でしか生きられない。グーグルを突破するイノベーティブな発想ができない。
 
 「人類誕生以来、過去に一度もなかった」ということを論拠にして、「だから未来にも絶対にない」と断言する人もたくさんいる。そういう人たちはライト兄弟の飛行を目の当たりにしても、自分の過去の発言は忘れて、「まさかこんな時代が来るとはねぇ」と言うだけだ。
 
 私は基本的に「反便利の精神」なので、ライト兄弟は好きではない。だが、それ以上に頭の固い人が嫌いなので、そういう人たちの鼻を明かしてやったという点において、ライト兄弟は好きなのである。
 

年末年始休という謎の休み

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Andreas Lischkaによる画像

 昔からずっと不思議だった。
 
 年末年始はなぜ休みなのか。
 
 カレンダーを見てみる。1月1日は赤くなっている。だがそれ以外の12月30日も31日も1月2日も3日もすべて黒字で書かれている。
 
 年末年始は企業も行政機關も当たり前のように休むけど、いったい何の根據があって休んでいるのか。
 
 調べてみた。
 
 企業や店は法律はなく、ただ慣習で休んでいるだけ。
 
 公務員の場合、「一般職の職員の勤務時間、休暇等に関する法律」という法律があって、その14条で12月29日から1月3日までは休日と定められている。この法律を元に休んでいるわけだ。
 
 しかし、この法律は公務員や行政機関にのみ適用される。企業、店、病院等は特に決まった法律があるわけではない。そしてこの法律の起源は明治6年に定められた太政官布告である。
 
 こういうことを言うと「年末年始くらい休ませろ!鬼か!」と言う人が出てくるが、私は普段好きな時にもっとどんどん休みをとればいいと思う。
 
 ゴールデンウィーク、盆休み、年末年始。大体の日本人にとってまとまった休みは、一年でこの三回だけである。そしてたったのこの三回に皆で一斉に休みを取る。なぜ「いっせーのせ」なのか。
 
 毎年、12月29、30日頃には帰省ラッシュのニュース、1月3日、4日頃にはUターンラッシュのニュース。東京駅で新幹線から降りてきたお父さんがぐったり疲れきった様子で「明日からまた仕事です」とTV局のインタビューに答えている。
 
 これで「休んだ」ことになるのか?日本人は渋滞や長蛇の列に並ぶのが趣味なのか?全国で同時期に一斉に休むからこういうことになる。
 
 「実家に帰って正月を迎える準備をしなければ」と言う人もいるかもしれない。私の祖母は伝統的なしきたりや慣習をとても重んじる人で、11月頃から何週間もかけて正月をきちんと迎える準備をしていた。たったの一日や二日で何が準備できると言うのか。
 
 「せめて三が日ぐらいまでは正月気分でいたい」と言う人がいるかもしれない。だが、それもおかしいのである。今のお年寄りたちに話を聞くと、昔は1月20日くらいまでは正月気分で、会社に行っても働いているような働いていないような、という雰囲気で、20日を過ぎた頃くらいから徐々に元通り真面目に働き出す、という会社が多かったらしい。それは会社だけではなく店も同じで半分休業半分営業という雰囲気が世の中全体にあったと言う。
 
 つまり、昔はもっと「正月」というものは長かったのに、段々と短くなっていって、今では1月2日にはもうすでに正月気分はない。
 
 「正月」は昭和の頃に比べてどんどん短くなり、ほんの数日にぎゅっと圧縮され、その僅かな間に慌てて帰省し慌てて戻る。休み中は子ども相手と渋滞ラッシュでくたびれ果て、次の日からすぐ仕事。
 
 こんな「苦行年中行事」は改めるべきだ。
 
 時代に合っていない旧い法律を改めて公務員は年末年始も働くようにした方がいい。もともと法律に縛られていない民間企業は率先して年末年始も働こう。
 
 あと、「年末年始まで働けと言うのか!鬼!」と言う人は、年末年始に電車に乗って初詣に行くべきではない。鉄道会社の人がかわいそうだろう。年末年始にインターネットも使うべきではない。インターネットプロバイダー会社の人がかわいそうだろう。
 
 私の職場は、12月は31日まで仕事。1月は2日から仕事だ。1月1日は何故休みかって?1月1日は元日(がんじつ。元旦ではない)という祝日だから休みだ。
 
 昭和の頃に年末年始が休みだったのは、その後1月20日過ぎまでなんとなくダラダラ休める、ということがセットとしてあった。だが今はもうとっくにそんな雰囲気は無い。それなのに年末年始休という旧習だけが残っているのは徒に日本国民を苦しめているだけだ。
 
 公務員の法律も、「なんとなく習慣だから」で年末年始を休みにしている会社や店も、在り方を見直すべきである。

日本人のデジタル音痴

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Sara Tordaの画像
 
 「デジタル音痴」と言うと一般的には、パソコンやスマホを使いこなせない人、という意味になる。「いますよね、今どきパソコンを使えなかったりスマホを触ったこともない人」。
 
 だが、ここで私が言う「デジタル音痴」とはそういう意味ではない。「デジタル」に対するセンス(感覚)の無さ、である。
 
 例えば、もう10年以上前から時々話題になる「デジタル教科書」。なぜデジタル教科書を導入するか、と問うと、「デジタル教科書にすると、今まで紙の写真では分からなかった動物の動きなどがよりリアルにより鮮やかに感じ取れるようになるんです」と言う。
 
 これが日本人の「デジタル」に対する考え方である。
 
 だから日本企業はテレビを「より高画質に」することに何十年も力を注いできた。「動植物の動きがより鮮やかにリアルに感じられる」、その程度の理由ならデジタル化することに大したメリットはない。紙の教科書にはそれを上回るメリットがたくさんある。そうではなくて、デジタル化の本質は「情報化」にある。たとえば教科書がインターネットに繋がってそこからたくさんの情報にアクセスできるようになることがデジタル化の意義である。
 
 これは、デジタル黒板、電子お薬手帳でも同じことである。それがネットに繋がっておらず、単に紙を電子に置き換えただけのものなら、それにどれだけのメリットがあるだろう。セキュリティ上敢えてそうしている場合を除いて、インターネットに繋がっていないパソコンやスマホに何の意義があるだろう。        
 
 で、その最たるものはマイナンバーカードに対する国民の認識である。マイナンバーカードは批判が多くほとんど好かれていないが、たまにマイナンバーカードを褒める声を見る。
 
「コンビニで住民票を取得できるのが便利だ」
 
というような声である。紙の住民票を、わざわざ役所まで取りに行かないでコンビニで取れることを喜んでいる。この声には日本人のデジタル音痴っぷりが見事に象徴されているように思う。コンビニまで歩いて行って、コンビニのコピー機で紙の住民票を手にして、それを便利だ!と言っているのである。
 
 マイナンバーカードというのは、あらゆる手続きをオンラインでできるようにするために作られたカードである。コンビニまで行ってそこでカードを使って紙の住民票を取得できるようになることが「デジタル」なのではない。
 
 最近も、全国の小中学生に国が一人一台のパソコンを普及させる、というニュースがあった。どうも日本人は「パソコンこそデジタル」と思ってる節がある。パソコンは単なる手段であって学校内にネット環境を充実させることこそ肝腎である。
 
 繰り返しになるが、私の言う「日本人のデジタル音痴」とは、「パソコンやスマホを使うのが苦手」「使いこなせていない人がいっぱいいる」ということではなく、デジタルに対するセンス(感覚)の問題である。住民票をデジタル化することを考えずに、紙の住民票をカードでコンビニのコピー機で取得できるようになって便利!と言ってしまうようなセンスである。
 
 パソコンやスマホを使いこなせるかこなせないか、などというのは些細な問題である。別にそんなものは使いたくない人は使わなければいい。だが、国としてあらゆる手続きをオンラインでできる環境というのは整えておかなければならない。そしてそういう声を上げる人の少なさに、私はこの国の人々の「デジタル音痴っぷり」を感じるのである。