漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

事後の変化、事前の変化

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 NewspicksでJRの社長がダイナミック運賃導入に言及する中で「もうコロナ前には戻らない」と言ってるのを見て、大企業のトップがなんとつまらないことを言うのかと思った。「戻らない」ではなく、「戻すか戻さないか」が問われているのに。
 
 それに対して「ダイナミック運賃賛成!オーストラリアなんかでは以前から導入されていますよね!」と言ってるコメントがまた多数の賛同を集めていた。Newspicksは新し物好きな人たちが集まっているので、こういうコメントが多数の賛同を集めるのは特段珍しいことではない。
 
 COVID19の大流行以来、「新しい生活様式」、「ニューノーマル」、「新常態」といった言葉を見聞きするようになった。これを機に私たちも変化しましょう、というわけである。
 
 だが私はこうした風潮に違和感を感じている。
 
 私は「変化」には二つの変化があると思っている。「事前の変化」と「事後の変化」である。
 
 事前の変化は、事が起こる前に変化する。先に理想像というものがあって、そこに向かって変化していく。
 
 事後の変化は、事が起こった後に変化する。何か事が起こって、それにどう対処したらよいかというところから考え始めて変化するので、この変化は大きくは「対応策」の一環である。
 
 ダイナミック運賃の話で言えば、私はオーストラリアが本当にそのような制度を導入しているのかどうかまでは知らないが仮にそうだとして、オーストラリアはコロナ前に導入しているのである。日本はコロナ後に導入しようかと言っている。これは同じ「変化」でも大きな違いだと思う。ダイナミック運賃が制度として素晴らしいものか否かという話は今は置いておく。
 
 もしダイナミック運賃という制度が素晴らしいものだと言うなら、それはコロナとは関係なく導入すべきものだろう。オーストラリアはコロナ前に、つまりコロナとは関係なく導入している。日本は「コロナを機に」導入しようと言っているところが駄目なところだ。
 
 「素晴らしいものなら遅れてでも導入するのは良いことじゃないですか」と言う人がいるだろうが、こういう「事後の変化」はただの対応策、弥縫策でしかない。
 
 対応策であることには二つの問題点があって、一つは対応できてしまうことによる「問題のぼやけ」がある。つまりコロナ禍に上手に対応することにより、コロナの問題自体は見えにくくなってしまう。
 
 もう一つは、こうした「事後の変化」が、「狭間に苦しむ人」を救いにくい、という問題がある。
 
 例えば大学の新入生。「今年の新入生はせっかく大学に入学したのに大学のキャンパス、校舎、施設も使えず、友達も作れなくてかわいそうだね」という声を屢々聞く。こういうのは「かわいそう」で済ませてよい問題ではない。これも事後の変化が齎す問題の一つだ。
 
 「日本ではどうしてイノベーションが生まれないのか?」という古くから言われている問題があるが、その答えの一端は、こうした事前と事後の違いにある。事後の変化であっても、時に“偶然に”イノベーションとも呼べるような大変化が生まれるかもしれないが、それは所詮、理念なき変化である。
 
 戦時中を聯想する。「たしかに今までは華美な服装をしてよかったかもしれないけど、今はこういう時代なんだから、贅沢は慎んでみんなで協力してやっていかなきゃしょうがないでしょう。大仏を溶かして銅を供出するのだって、こういうご時世なんだから、しょうがないでしょう。これが今の時代の新しい生活様式なんです」。
 
 「贅沢は敵。慎ましいことは美徳じゃないですか」と言うなら、なぜ戦争前からその慎ましい暮らし方ができていないのか。「戦争に勝つため」と言うが、なぜ戦争が始まる前から戦争に勝つ準備ができていないのか。
 
 誰も戦争に勝ちたくなどないのだ。ただただ、「戦争の世の中になってしまった」から、それへの対応策を取っているだけなのだ。それらの「対応」がどれだけ戦争を長引かせ、どれだけ多くの人々を苦しめたかはご存知の通り。
 
 「新しい生活様式」、「ニューノーマル」はまるで「私は今まで何も考えずに生きてきました」と言ってるようなものだ。私たちには事後の変化ではなく事前の変化こそ必要なのだ。日本で今言われている「変化」は事後の変化。事後の変化というのはただの「対応」でしかない。
 
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2020年東京都知事選挙の区別結果から見る東京23区の地域傾向

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 2020年7月5日、東京都知事選挙が行われた。都民の一人として私も投票に行った。
 
 その結果は次の通り。
 
1位 小池百合子 59.7%
2位 宇都宮健児 13. 76%
3位 山本太郎 10.72%
4位 小野泰輔 9.99%
(数字は得票率)
 
 小池氏の圧勝であった。小池氏は東京のすべての区、市で1位の得票率であった。また、多くの区、市で宇都宮氏が2位であり、3位は山本氏と小野氏がほぼ同数であった。
 
 全体的な傾向は以上のようでありながらも、区ごとの結果を細かく見てみると、東京という街の特徴が見えてくる。
 
 次の図は、小池氏の得票率が高かった上位7区と宇都宮氏の得票率が高かった上位7区を色塗りしてみたもの。緑が小池氏で黄色が宇都宮氏である。かなりはっきり東西に分かれている。
 
緑=小池
黄=宇都宮
 この分かれ方は何を意味するか。地方の人にはあまりピンと来ないかもしれないが、これは大雑把に言うと「学のある地域」と「学のない地域」である。黄色の地域は大学などが多い「学のある」地域で、緑色の地域はそれに比して大学なども少ない相対的に「学のない」地域になる。
 
 今回は23区にだけ色を付けたが、この傾向は市部でも同じで、例えば一橋大学を中心とした大学街として有名な国立市は他の市と比べて小池氏の得票率が低く、宇都宮氏の得票率の高さが目立つ。
 
 
 次に「3位」に注目してみる。ほとんどの区で1位は小池氏、2位は宇都宮氏だったが3位は山本氏と小野氏が接戦だった。
 
 次の図は3位がどちらだったかを色分けしたものである。薄い赤が山本氏、薄い青が小野氏が3位を取った区である。濃い青は小野氏が宇都宮氏を斥けて2位だった「もっと小野」の区である。見て分かるように、こちらは先ほどと違って南北に分かれている。
 
赤=山本
青=小野
濃い青=もっと小野
 
 この違いは何を意味するか。これは、簡単に言うと「金持ち地域」と「貧困地域」の違いである。
 
 政治志向的に、小池氏と小野氏は「強者のための政治」である。日本や東京を強くしましょう、という思想である。対して、宇都宮氏や山本氏は「弱者のための政治」を志している。
 
 金持ちエリアに住んでいる人たちは、すでに自分が強者なので、「弱者のための政治」よりも「強者のための政治」に投票するというわけである。ほとんど金持ちしか住んでいないと思われる、千代田、中央、港の都心3区での小野氏の支持率の高さ(宇都宮氏の支持率の低さ)が目立つ。
 
 このように、東京23区にはうっすらと「エリア」がある。「学」については東西に、「金」については南北に。
 
 私は以前から東京には「学」や「金」についてエリアが存在すると考えているが、今回、選挙結果を分析してみることで少しその傾向が見えたような気がする。
 
 もっとも、エリアがあると言っても“うっすら”である。23のすべての区において、小池氏が圧倒的得票率1位であったことは注意されたい。
 
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マイキーIDとは何か

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 マイキーID。今はまだほとんどの国民に知られていないこのIDも、そう遠くない将来にほとんどの日本国民に知られるようになる。マイキーIDは、これからの社会生活の根本になってくるものだからである。
 
 「マイナンバー制度」という言葉のイメージはこんな感じ。私は「マイナンバー制度」という言葉は大きくは「マイナンバー」と「マイキー」の二本立てで成り立っていると理解している。
 
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 だが世間ではマイナンバーの方はよく知られているものの、マイキーの方はほとんど知られていない。なのでマイキーの考察に入る前に、いつものようにQ&A方式でマイキーIDの基本的な説明を先に書こうと思う。
 
Q1. 「マイキーID」って何?
A1. 日本国民のためのデジタルID。
 
Q2. マイキーIDは誰でも持ってるの?
A2. 初めから全国民に割り振られているマイナンバーと違い、申請した人しか持っていない。
 
Q3. マイキーIDを持つことは義務なの?
A3. 義務ではない、自由。
 
Q4. マイキーIDは誰でも作れるの?
A4. マイナンバーカードを持ってる人しか作れない。
 
Q5. マイキーIDは好きな文字列にできるの?
A5. 初期設定ではランダムな文字列になるが好きな文字列に変更することは可能。(ただし既に使われているものは駄目。)
 
Q6. マイキーIDはどんなことに使えるの?
A6. 今のところマイナポイントを貯めることくらいしか使い途はない。
 
Q7. マイキーIDを持ってたらどんなメリットがあるの?
A7. 今のところは大したメリットはない。
 
Q8. マイキーIDを持つことによるデメリットは?
A8. デメリットも今のところ特にない。
 
 
 さて、ここからが本題。マイキーIDの考察。マイキーIDは、これから広く国民的なデジタルIDになっていくIDである。今のところはマイナポイントくらいにしか使えないが、その先はありとあらゆるIDとして使うことができる。
 
 「国民一人ひとりが持つデジタルID」と聞いて、多くの人が抱く疑問は「それってマイナンバーじゃないの?」ということだろう。たしかにマイナンバーも国民一人ひとりが持っている個人に固有の番号であり、主にデジタルで扱うので、そういう意味ではこの二つは似ている。
 
 では、何故何のためにマイナンバーの他にマイキーIDという固有のIDがあるのか?
 
 それはマイナンバーとマイキーIDは主な使い手と使い途が異なるからである。
 
 マイナンバーは主にバックヤードで使われる番号である。バックヤードとは私たち国民があまり目にすることのないところのことであり、より具体的には行政機関間等の情報連携に使われる。(今はまだ全然使われていないのだが...。)
 
 一方、マイキーIDの「使い主」は私たち国民である。マイナンバーを使うのは主に国や地方自治体やそれに準じる組織などだが、マイキーIDは国民自身が使う。Googleを使う時にGoogleアカウントを使う感覚に似ている。マイキーIDは目に見える表(おもて)のところで使われる。国民が自分で必要な時に使うイメージである。(こちらも今はまだ全然使われていないが...。)
 
 マイキーIDが表でマイナンバーが裏である。
 
 Appleを利用している人はApple IDでログインするだろう。それと同じでマイキーIDは私たち国民がデジタルの世界にログインし、かつ個人を認識するための文字列(ID)である。マイナンバーでログインするわけではない。
 
 また余談だが、マイナポイントは「マイナンバーに貯まるポイント」ではない。名前からしてそう思ってしまいそうだが、マイナンバーは関係ない。マイナポイントはマイキーに貯まる。このマイナポイントの例でわかるように、マイキーIDは、より身近な、私たち国民の暮らしに近いところで、かつ目に見えやすいところで使われる。
 
 マイキーIDはマイナンバーとは紐付いていない。独立しているからこそ、マイナンバーよりもっと自由に気軽に使うことができる。マイキーIDはこれから広く国民的なデジタルIDとなっていくべきものである。だがそのためには、今よりずっと広い用途で使えるようになることが欠かせない。
 
 マイキーの推進にあたって政府は立ち竦んでしまっている。マイキーもマイナンバーと同様、今のところまったく活用されていないに等しい。使い方やマイナンバーとの棲み分けをどうすればいいか、といったようなことに迷っているのではないか。
 
 マイナンバー制度に批判的な人々は「なんとなくプライバシーが心配」「今の政府が信用できない」と言う。しかし、「なんとなく」ではなく、仕組みをきちんと理解して批判しなければいけない。マイナンバーもマイキーも、すでに出来上がったり普及したりしてから批判をしても遅い。政府が信用できないなら尚のこと、先手先手で批判していかなければならない。
 
 今ならまだ間に合う。日本のデジタルIDをどうするか、は日本国民自身が考えていかなければいけない。
 
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変化に適応するだけの日本人

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つまらない「ダーウィンの言葉」

 
 数日前に「ダーウィンの言葉」として、こんなのが話題になった。
最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残ることができるのは、変化できるものである。 
 
 話題になったきっかけは自民党の広報がツイッターに上げたからだが、この言葉自体は「ダーウィンの言葉」として以前から広く知られている。
 
 「本当はダーウィンはこんなことは言ってない」、「これはダーウィンの進化論を誤って解釈したものだ」という意見もある。
 
 この言葉がダーウィンの言葉として正しいのかどうかは今は追究しない。私が気になっているのは、日本人はこういう言葉が好きな人が多いであろう、というところだ。仮にこの言葉が本当にダーウィンの言葉であったとしても、あるいは他の有名人の“名言”であったとしても、私はこの言葉に魅力を感じない。なんともつまらない言葉だと思う。
 

事後適応する日本人

 
 「事後適応」。これが私は日本人の特徴の一つだと思っている。日本人は適応能力が高く、時代の変化に上手に対応していく。パソコンの時代が来れば皆パソコンを習熟し、携帯電話の時代が来れば携帯電話を使いこなすようになり、ガラケーからスマホの時代に変われば、またスマホに対応する。
 
 例えば00年代頃は、「これからはパソコンの時代なんだからパソコンぐらい使えるようになっておかないと」、「もう世の中はパソコンの時代なんだからパソコンを否定していても始まらないでしょう」と言う人が多かった。
 
 日本人は時代の変化、社会の変化を、「雲が湧いてきて雨が降る」といったような「自然の成り行き」として捉えている人が多い。自分の行動とは関係なくパソコンの時代に「なる」のである。パソコンの時代に「する」のだ、と考える人は少ない。
 
 これは、憲法改正の話に限らず、万事に見られる日本人の思考法だと思う。
 
 私はマイナンバー制度に関心を持っていて、このブログでもマイナンバーについてたくさんの記事を書いているが、このマイナンバー制度にしても導入した理由は「他の国もやっているから」。「それが今の世界の潮流だから」。「世界の流れに日本だけ乗り遅れるわけにはいかないから」。
 
 この思考法は必ず「後手」になる。世界の流れを見てから動くわけだから。そしてその「流れ」というものは自分で作り出すものではなく、“勝手に”、“自然と”できあがるものであり、その流れに乗り遅れまいとする。
 
 日本人にとって「パソコン社会」というものは、自分たちで作り出すものではなく、ある日突然、または徐々に、向こうから勝手に成立するものである。自分たちにできることは、その流れにとにかく乗り遅れないように必死でパソコンの習熟に努め、適応を計っていくことである。
 

理念と哲学がない日本人

 
 日本人には理念や哲学といったものがない。これは平たく言えば、「こういう世の中にしたい」が無い、ということだ。理想を描くところから始まらないので、他国の制度を真似してマイナンバー制度を作ってみたはいいものの、それをどうやって使ったらいいのかわからない。日本でマイナンバーとマイナンバーカードが活用されていないのは、よく言われているような「反対する人たちのせい」ではなく、政府も国民も誰もこの番号やカードの使いみちがわからないからだ。「マイナンバーを使ってこういう世の中を作りたい!」が無かったので、他国の制度をパクってきたところまではいいが、その先がない。でも日本人的には、もう外国から「まだ個人番号制度ないの?」と馬鹿にされずに済む、ということこそが大事なのだ。
 
 憲法改正もまったく同じ理由。「軍隊を持ちたい」、「他の国にだって軍隊はあるじゃないですか」、「なんで日本だけが軍隊を持っちゃ駄目なんですか?」、「軍隊がないから他国に舐められる」。
 
 現代は世界の主流は軍隊である。世界の主要国はほとんどが軍隊を持っている。この時代の流れに取り残されているのは恥ずかしい、要は「みんなが持っているから僕も持ちたい」ということである。「軍隊を持ってこういう世界にしたい」という理想像は誰も思い描けていない。そのような世界をリードする先行理念を思い描くのは日本人はまったく苦手で、とにかく世界に他国に追いつきたい、という一心なのである。
 
 それは憲法改正推進派の人たちが言う「私たちは何も戦争をしたいわけじゃないんです」という言葉にもよく表れている。「普通の国になりたい」、「並の国になりたい」、「一般的な国になりたい」。マイナンバー制度と同じで、軍隊も有ったらひと安心。これで他国に引けを取らない。恥ずかしくない、堂々と胸を張れる国になった。
 
 マイナンバーを使ってこういうことがしたい!、軍隊を使ってこういう世の中を実現したい!、は無いのである。
 
 欧米人は、先行理念や哲学がある。「パソコンやインターネットを使ってこういう世の中を作りたい!」がまず先にある。そこに向けてIT社会を構築していく。だが日本にあるのは、IT社会が向こうから勝手に到来して、「私たち日本も、この時代の流れに乗り遅れないようにしましょう」ということが目標になって、例えば小学校におけるパソコン教育などを始める。
 
 すべてが後手の思想である。理念も哲学もない。冒頭のダーウィンの言葉と言われている言葉、に戻ると、日本人は環境を“作らない”。環境を作るという発想がない。自分たちと関係なく“自然と”変化していく環境に「いかに適応するか」だけを考えて生きている。「負けまい」という思想はあるが「勝とう」という思想はなく、「遅れまい」という思想はあるが「先んじよう」という思想はない。
 
 ここ最近話題のトピックスである「アフターコロナ」の話題を見ていてもそう感じる。「アフターコロナには世界はきっと変わる」と言う人は多い。「そんなに変わらないんじゃないか」と言う人もいるが、誰も「変える / 変えない」とは言わない。日本人は、アフターコロナの世界はどう変わっているかを予想し議論し、それにうまく適応することを考える。だが、アフターコロナの世界をどう変えるか、あるいは変えないか、という考え方は誰もしない。
 
 冒頭の自民党の漫画がつまらないのは、変化後の適応の仕方、生き残り方ばかりを考えているところだ。特にこのアカウントは為政者のアカウントでありながら、どのように世の中を変えていくかという考えが微塵もない。 
 
 「変化に適応する / 適応しない」という考え方はつまらない。私は「変化を作る / 作らない」人間でありたい。
 

出社勤務は遅れていて在宅勤務は進んでいるという風潮に違和感

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 ネット上の、自称意識高い系の人が集まっているようなところでは、「出社勤務は遅れていて、在宅のリモート勤務という働き方の方が進んでいる」という単純な物の見方が幅を利かせている。
 
 2020年5月末で緊急事態宣言が解除になり、再び出社する人が増えた時も、「せっかく在宅でもできるということが証明されたのに、なんで戻ってしまうの?」と言っている人をたくさん見かけた。
 
 それを「伝染病の流行を防ぐ」という観点から言ってるのならまだ良いのだが、そうではなくて「せっかく先進的な働き方ができていたのにどうして時代遅れの働き方に戻ってしまうのだ」というニュアンスで言っていて、それが非常に気になった。一部の大手企業が「今後は基本、全員在宅」などと発表して、それも喝采を浴びていた。
 
 だが、私は、こういう「在宅が先進的で出社は時代遅れ」という風潮に疑問を感じる。自宅が快適でないという人は世の中にたくさんいる。
 
 例えるなら、「天井2メートル」のようなものだ。
 
 緊急事態宣言を受けて何らかの理由で今まで5メートルあったオフィスの天井が2メートルになったとしよう。そして緊急事態宣言が解除された時、「天井2メートルでも仕事は回ることが証明されたから、天井を5メートルに戻さず引き続きこのまま行きましょう」と言うようなものだ。
 
「なんで5メートルに戻しちゃうんですか?2メートルでも仕事できてたじゃないですか」
 
 しかし、仕事が“快適に”できていたかどうかは別問題である。高身長の人は頭のすぐ上に迫っている天井に圧迫感、窮屈感を感じながら我慢して仕事をしていたかもしれない。そういうのを含めて「できていた」「仕事は回っていた」と言うのは違う。
 
 もちろん、世の中には「狭い所好き」の人もいる。「私は元々狭い所好きなんで。上の階との階段が短くなって楽チンなので、このまま天井2メートルのままでいいと思います」と言う人もいるだろう。
 
 私が特に問題視しているのは、「これからずっと在宅」などを決めている上層部の人間が、「在宅という決定には社員全員喜んでいるに違いない」と考えているであろうところだ。
 
 「欧米でもそういう企業が増えてるじゃないですか」と言う人がいるかもしれない。だが欧米の家の広さと日本の家の狭さの違いを考えたことがあるのか。欧米で在宅勤務が快適だからと言って日本でも同様に快適であるとは限らない。日本の家は欧米の家のように各部屋が十分に独立した構造になっていない家も多い。親と、義父母と、あるいは子供と、ほとんど顔を合わせているような状態で働くことがどれだけ苦痛か。
 
 他にも、会社の近くに、通勤の便利さを考えて家を買った、という人もいるだろう。去年家を買ったばかりの人。買った途端に会社が「これからずっと在宅」と決めて、そういう人たちは何のためにその場所に高い金を出して家を買ったのだろう。そういう人たちを「運が悪かったね」という言葉で片付けるのか。
 
 上層部の人間たちはある程度の年齢の「大人」である。社会人経験もそれなりに長い人が多いだろう。在宅勤務が嬉しく感じられるのは「もう、あの“痛”勤満員電車に乗らなくていいんだ」という今までとの相対的な比較があって喜びがあるのである。だが、今年入社した人たちは、痛勤満員電車を知らず、初めから在宅勤務で、それの何が喜びなのか分からないだろう。
 
 「大人」たちは、今まで出社勤務の良いところ、すなわち、気の合う仕事仲間とコミュニケーションが取れたり、会社近くのおいしい店に食べに行ったり、会社帰りにショッピングをしたり、素敵な異性と仲良くなったり、そうした出社ならではの良い面を散々経験して来た上で、今度は在宅の良い面を味わいたいと言っているのだ。最初から出社の良い面を全然経験できない人たちとはまったく違う。
 
 これは、ある特定の世代、または特定の人たちの経験や機会を大きく奪うものだ。
 
 「在宅の方が進んでる」と感じるのは、「方が」という言葉にも表れているように、出社スタイルを知っていてそれと比較して初めてそのような感覚を持ち得るのである。比較の対象を知らない、味わったことのない人たちにはなかなか持ち得ない感覚である。
 
 私はこういうところに「大人たち」の傲慢を感じる。しかもそういう大人たちは「自分は頭の柔らかい新しい時代感覚の持ち主だ」と思ってやっているからタチが悪い。
 
 「オンライン」や「バーチャル」が楽しく感じてしまう私たち大人の感覚を若者に押し付けてはいけない。若者たちからそこでしか得られない、またその時しか得られないような貴重な体験や経験の機会をそう簡単に奪ってはいけない。
 
 そしてまた、自宅が快適でない人たちをそう無責任に「牢屋」に閉じ込めてはいけない。
 

特別定額給付金、なぜマイナンバーを使わなかったのか

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 怒っている。もう、この問題は繰り返し言ってきた。政府を批判したいがその前に国民の無理解があり、それとも闘わなければならなかった。大手マスコミの記事も大体目を通していたが、軒並み間違っていたり中途半端な理解だったりした。
 
 先ず第一に、特別定額給付金(全国民への一律10万円の給付金支給)に「マイナンバー」は使われていない。オンライン申請で使われているのは「マイナンバーカード」である。「マイナンバーカードが使われる」=「マイナンバーが使われる」ではない。そこは最初にはっきりさせておきたい。詳しくはこちらの過去記事参照。
 今回の給付金支給に当たって全国の役所で大混乱が起きたことがニュースでも報じられた。ひどいところでは4時間待ちが発生したとか、挙げ句には「オンライン申請よりも郵送申請の方が早いです」と言い出した。
 
 マイナンバーを使っていれば、こうした混乱の多くは避けられた。もっとスムーズに支給ができていたはずだ。
 
 なぜ政府はマイナンバーを使わなかったのか。こういう時に使わないで何のためのマイナンバーか。(*繰り返すがマイナンバーカードの話ではない)
 
 
 私は少し昔、街のクリーニング屋で経験したことを思い出す。
 
 初めて行ったクリーニング屋だった。街に数店舗を抱える小さなチェーン店。パートかアルバイトと思しきおばちゃん店員が3人忙しそうに働いていた。
おばちゃん「初めてですか?」
私「はい」
おばちゃん「カード作って。10%引きになりますから」
そう言って手作り風の簡単なメモ用紙を渡され、
「これに書いてください」
と言われた。
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 住所、氏名、連絡先。連絡先は電話番号とメールアドレスと書く欄があったので、私はメールアドレスの方を書いて渡した。するとおばちゃん、電話番号欄を指さしながら「何かあった時に連絡しないといけないのでここも書いてください」
私「連絡ならそのメールアドレスにしてください」
 するとおばちゃんは驚き、困惑した様子で、先輩のおばちゃんに相談。先輩のおばちゃんがやって来て、「これじゃ、これじゃ駄目なんです!電話じゃないと駄目なんです!」。泣きそうな顔だった。電話番号を書いてくれなかったのはあなたが初めてです、メールとかそういう難しいのは分からないんです(まだそういう時代だった)、と言いたげだった。
 じゃあ、なんでメールアドレスを書かせたのか。メールは連絡手段として使わないなら、なぜメールアドレス記入欄があるのか、という話である。私はそう言おうとしてその台詞を飲み込んだ。経営者の方針だろう。パートのおばちゃんたちは知らなさそうだ。ここで言い争うと自分の後ろに並んでいる人たちに迷惑もかかる。電話番号を追記して渡した。私の隣で同じように紙に記入していた人は電話番号だけ書いてメールアドレスは書かずに渡してあっさり受理されていた。私はメールアドレス書き損である。
 
という、もう何年も昔の話を、今回の給付金マイナンバー不使用の件で思い出したのだ。
 
 今回の件で「マイナンバーが銀行口座と紐付いていれば...」と言っている人をよく見かける。「いれば」ではない。マイナンバーはもう二年も前から銀行口座と紐付いている。政府が銀行と協力して国民にマイナンバーを銀行に届け出るようにお願いをしている。
 
 私は政府からお願いされたので、もうだいぶ前に銀行にマイナンバーを届け出ている。私のマイナンバーと銀行口座は紐付いている。新聞は「本人の同意が必要になる」と言っているが、私は同意して届け出ているのである。
 
 政府は社会保障のためにマイナンバーを使ってよいことになっている。ということは私のマイナンバーを見れば私の銀行口座番号は分かるはずである。なぜ、そこに振り込まないのか。なぜ、紙やパソコンやスマホに銀行口座を書いてこちらから知らせなければならないのか。
 
 ここで法律に少し詳しい人は「法律上の制約がある」と言うかもしれない。たしかに政府がマイナンバーを使わなかった表向きの理由はそうだ。だが、番号法の別表第二にはたくさんの事務が記載されており、そこに新しい事務を加えることはそんなに難しいことではないのだ。憲法を改正するようなそんな難しい話ではない。
 
 「でも、銀行にマイナンバーを届け出ている人は少ないと思いますよ」と言う人がいるだろう。
 
 それは知らない。政府のお願いに応じて銀行にマイナンバーを届け出ている人が、全国民の90%なのか、50%なのか、10%なのか、あるいはもっと少なくて2%くらいなのか、それは私は知らない。今のところ、マイナンバーの届け出は(投資信託などを除けば)絶対義務ではないので、届け出ているかどうかは人々の勝手である。
 
 だが、政府からお願いして、それにちゃんと応じている人がいる以上、その人たちにはマイナンバーを使って銀行口座に振り込むのが道義であろう。
 
 メールアドレスを書かせておきながら、メールは連絡に使わないと言うクリーニング屋マイナンバーを銀行に届け出させておきながら、給付金の振り込みにマイナンバーは使わないと言う政府。
 
 国が、街のクリーニング屋と同じレベルのことをしているのである。クリーニング屋と政府は「やーい!引っかかったー!」と言いたいのか?
 
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 こちらのポスターをご覧いただきたい。銀行へのマイナンバー届け出のお願いである。お願いしている主体は誰か。それは下の方に書いてある全国銀行協会内閣府金融庁。政府がお願いしているのは明白である。「銀行もお願いしてる!」と思う人がいるかもしれないが、銀行にはお願いするメリットはあまりないのである。法律によってマイナンバーの利用用途は極めて限定されており、銀行はせっかく集めたマイナンバーを自分たちの商売に使うことはできない。それどころか顧客から預かったマイナンバーの厳重な管理を求められるので、逆に負担が増えるくらいなのである。銀行はただ政府からお願いされているだけで、そんなに積極的にマイナンバーを集めたい気持ちはない。
 
 で、この「お願い」はもうずっと前から行われている。2018年1月には銀行口座とマイナンバーを紐付けて管理することが義務付けられた。
 
 仮に銀行口座を持っている日本国民が5000万人いるとして、その内の2%がマイナンバーを届け出ていたとすると、100万人の人がすでに銀行口座とマイナンバーが紐付いているわけである。なぜ、その人たちの銀行口座にマイナンバーを使って給付金を振り込まなかったのか。申請すら必要ない。国から一方的に振り込むことができたはずだ。
 
 「そうなると届け出ていた人と届け出ていなかった人とで分けなければいけないから、作業が煩雑になるのでしょう」と言う人がいるかもしれない。しかし、今回、政府がとったマイナンバーカードとマイナポータルを使う支給方式でも、オンラインと紙で申請した人に二重払いを避けるための事務作業は必要になる。
 
 国はマイナンバーを通じて、私の名前、住所はもちろんのこと、家族情報、世帯主かどうか、私の銀行名、支店名、口座番号もすべて分かる。なぜなら私が同意してとっくの昔に届け出ているからだ。それなのになぜマイナンバーを使って給付金を振り込まないのか。
 
クリーニング屋「何かあった時のためにメールアドレスを書いてください」
私「はい」
クリーニング屋「メールアドレスは使いません。電話番号じゃなきゃ駄目なんです!」
私「???」
 
政府「何かあった時のために銀行口座を教えてください(銀行にマイナンバーを届け出てください)」
私「はい」
 ↓
何かあった(世界的コロナウイルス大流行、非常事態で給付金支給)
 ↓
政府「マイナンバーは使いません。紙かマイナポータルに銀行口座を書いてくれなきゃ駄目なんです!」
私「???」
 
 あの時のクリーニング屋と同じだ。聞いておきながら「それは使いません」と言う。じゃあ、なぜ聞いたのか。
 
 政府と国民の間にいちばん大切なものは信頼である。こんな「騙し」を続けていて誰が政府にマイナンバーを預けようと思うだろう。たとえ2%の人であってもその人たちの口座にマイナンバーを使って振り込んでいれば、その2%の人たちが「私は申請もしないで勝手に給付金が振り込まれていた!」とネットに書き込み、そしてその話が広まるだろう。そうすれば口座紐付け義務化などしなくても、国民のほうから進んでマイナンバーを届け出ようとするだろう。
 
 私が政府の人間で全口座をマイナンバーと紐付けたいと考えているならそうする。「義務化」などという押し付けは嫌われるだけで、一部の素直に届け出ていた人が良い思いをした、ということを人々が知ったら、我も我もと届け出てくるはずである。それは、あれほどマイナンバーカードを嫌っていた国民が「10万円が早くもらえるかも」という噂を聞いた途端、役所の窓口に大行列を作った今回の件を見ても明らかである。
 
 それに何より、聞いたからには使わなければいけない。それは当然にやらなければいけないことである。これだけ個人情報やプライバシーの意識が高まっている時代に「ちょっと聞いてみただけ」はあり得ない。
 
 こんな政府、あなたは信用しますか?
 
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虎ノ門ヒルズ駅誕生に伴う日比谷線の駅間問題

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 日比谷線は駅間がおかしい。
 
 地下鉄の駅間はなるべく均等に作られているが、日比谷線は駅間が極端に短かったり長かったり。
 
 この度の虎ノ門ヒルズ駅の開業で、ますます駅間がおかしくなった。
 
 下図の通り、例えば北千住駅から中目黒駅方面に向かうとすると、日比谷駅までの下町区間はずっと駅間が短いが、日比谷駅を過ぎると突然駅間が長くなる。港区は広大な敷地が多い関係で細かく駅を作るのが難しいのだろうか。
 
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 新しく開業した虎ノ門ヒルズ駅は霞ケ関駅神谷町駅の間にできた。
 
 私がこれの何が問題だと思っているかと言うと、駅間の平均化どころかアンバランス化に貢献してしまっているところである。特に前後の駅間とのバランスが非常に悪くなるのである。
 
日比谷―霞ケ関間 1.2km
霞ヶ関―神谷町間 1.3km
神谷町―六本木間 1.5km
 
 この三つの駅間、営業距離をこうして比較してみると、どれも大して変わらないじゃないか、と思うかもしれない。しかし、電車に乗っている時間、所要時間を見てみると全然違うのである。
 
 実際に日比谷駅から六本木駅までの駅間の平均所要時間を計ってみた。
 
日比谷―霞ケ関間 2分26秒
霞ケ関―神谷町間 1分44秒
神谷町―六本木間 2分52秒
 
 霞ケ関―神谷町間が圧倒的に短い。この三つは駅間距離が大して変わらないのに、どうしてこんなに所要時間に差が出るのか?
 
 それは線路の形にその答えがある。下図は日比谷から六本木、広尾までの日比谷線の路線を地図を見ながら写し書きしてみたもの。
 
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 日比谷―霞ケ関間、神谷町―六本木間には途中に大きなカーブがあるのが分かるだろう。特に神谷町―六本木間のカーブなどは直角に近く、ここで電車は大きく減速する。だから神谷町―六本木間の所要時間は距離以上に長いのである。一方、霞ケ関―神谷町間はほぼ真っ直ぐなので減速することなく短時間で走り抜けている。
 
 で、虎ノ門ヒルズ駅は前後の駅間に比べて圧倒的に短い、この霞ケ関―神谷町間にできた。霞ケ関―神谷町間の所要時間を単純に2で割ってみると次のようになる。
 
日比谷―霞ケ関間 2分26秒
霞ケ関虎ノ門ヒルズ間 0分52秒
虎ノ門ヒルズ―神谷町間 0分52秒
神谷町―六本木間 2分52秒
 
 もう、倍以上。虎ノ門ヒルズから神谷町まであっという間に着き、神谷町を出発してから六本木に着くまで3倍近い時間を体感することになる。ただでさえ今まで神谷町―六本木間は長いなあ、と感じていたが、虎ノ門ヒルズ駅ができたことにより、相対的にますます長く感じることになるだろう。
 
 1.3kmの直線という日比谷線では最もスピードの出る区間における途中駅の登場。駅ができたら当然そこで減速して止まるし、そこでの乗り降りも発生する。虎ノ門ヒルズに用がある人にとってはこの新しい駅は有り難いだろうが、日比谷線全体の目的地までの到着時間は長くなる。この区間を跨いで通勤通学をしている人が最もそれを感じるだろう。そして心理的には日比谷―霞ケ関間や神谷町―六本木間が今まで以上にとても長く感じられるようになるだろう。