漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

ATMに並んでいる人

f:id:rjutaip:20190716221358p:plain

 
 街なかで見かける。
 
 ATMに並んでいる人たちが気の毒だ。
 
 彼らは何を思って並んでいるのだろう。辛抱強く忍耐強く並んでいる。
 
 キャッシュレス社会に生きる未来の人たちはATMに並ばない。過去の人たちもATMには並んでいない。江戸時代の人も縄文時代の人たちもATMには並ばなかった。
 
 ATMなんかに並んでいるのは現代人だけだ。
 
 このように私が言うと、「しょうがないでしょう。私たちが生きているのは江戸時代でもなく22世紀でもなく現代なのですから。現代に生きる私たちは現代の流儀に従って生きていくしかないでしょう」と皆言う。
 
 だが、その「流儀」や「常識」はもっと簡単に変わる。百年後とか、そんな遠い未来に変わるのではない。
 
 昭和時代には、成人男性は皆タバコを吸ってるのが「当たり前」だった。職場でも飲食店でも。しかし一人の人生の間にその「当たり前」は劇的に変化し、今や吸わない方が当たり前になった。
 
 昭和時代には遠方の人にメッセージを送る時は葉書か手紙で送るのが「常識」だった。そこから電子メールが「常識」に取って変わるまで、ほんの十数年しかかからなかった。
 
 
将来の子ども「私のおじいちゃんはどうして亡くなったの?」
 
「おじいちゃんは、真夏にATMの列に並んでいて熱射病で倒れて亡くなったのよ」
 
子ども「そんなくだらない理由で亡くなったの?」
 
「まあ、そうねえ、当時はそれが普通だったから」
 
子ども「何のためにATMに並んでたの?」
 
「当時は今みたいにクレカや電子マネーで買い物ができる店が少なくてまだまだ現金が必要だったから、ATMに行ってお札を下ろす必要があったのよ」
 
子ども「じゃあ、ATMがたくさんあったの?」
 
「うん、今よりはずっとたくさんあったわね。でも、当時は銀行の経営効率化の名の下に、コストがかかるATMは急激に台数を減らされていたの。だから一台のATMにたくさんの人が並んでいたのよね。給料日とか連休前には長蛇の列ができるのがおなじみの恒例行事のような光景だったわね」
 
子ども「それで、おじいちゃんは20分も並んでて倒れたの?誰も不満は言わなかったの?」
 
「今はもう街なかでATMはほとんど見かけないし、今振り返ってみれば、ATMにあんなに長時間並んでいたのはあの頃だけだったわね。でもあの頃はあれが普通で当たり前のことだと思っていたのよ。誰もそれをおかしいことだとは思わなかった。しょうがないって思ってたわ」
 
 
 私が関心があるのは、いつだって今この一瞬のことだ。
 
 今の人は二言目には「コスパコスパ」と言う。ATMは設置と維持に大きなコストがかかると言う。銀行の経営改善、効率化のためにATMを減らしましょう、と言う。
 
 銀行は効率化するかもしれないが、人々の生活はどうなるのだ。たくさんの国民が何十分もボケーっと並んでいるのは効率が良いと言えるのか?
 
 充分にキャッシュレスで生活できる環境を整えてATMを無くすのでもない。ATMの台数を増やすのでもない。まだまだ現金を必要としている環境の中でATMの台数を減らしていく。
 
 「今は過渡期ですから」と言う。
 
 その過渡期に倒れた人の人生はもう二度と戻って来ない。
 
【関連記事】

西日本豪雨と熊澤蕃山

 平成30年西日本豪雨災害から一年が経つ。
 
 梅雨前線が長く停滞し、西日本の広範囲に渡って大きな被害を齎した。200名以上の人が亡くなり、家の全半壊1万棟以上、床上床下浸水3万棟以上の大災害となった。
 
 7月6日には岡山県でも大きな被害が出た。豪雨被害は、九州から始まり、西から順番に東へと移動して行ったため、順番から言って岡山県はほぼ最後の方だった。川が氾濫し、倉敷市真備町でたくさんの人が亡くなった。
 
 この災害の時に私が思い起こしたのは、約400年前、岡山の治水、治山に尽力した思想家、熊澤蕃山のことだった。
 
 岡山県という所は昔から「晴れの国」と言われるぐらい一年を通しての晴天率が高い。その一方で、一度雨が降ると水害が起こる。
 
 岡山県内には大きな川が三つあり、さらにはそれぞれの川の支流がある。中国山脈から瀬戸内海までの距離が短いため、おのずと川は急流になる。こうした構造は隣の広島県も似た感じになっている。そのため、岡山県は晴れの国であるにもかかわらず、歴史的にたびたび大きな水害に見舞われて来た。
 
 特に明治時代には大きな水害が立て続けに起こり、危機感を感じた宇野圓三郎という人が対策に乗り出した。今の岡山県の安全は、この時、宇野圓三郎が施した水害対策に負うているところが大きい。
 
 宇野圓三郎は、吉井川、旭川高梁川のような大きな川よりも、むしろ支川の方で氾濫、洪水の危険が高いということをすでに明治時代に指摘している。平成の大洪水で氾濫したのも小田川という小さな川だった。
 
 この宇野圓三郎が岡山県の人々に治水事業の重要性を説く時に口にしていたのが、江戸時代の思想家、熊澤蕃山の名だった。
 
 熊澤蕃山は江戸時代初期の頃の人。その思想は江戸時代の他の思想家の思想と比べて、国土を論じたところにその特徴がある。蕃山は国土、土木、治水といったことに関心が高かった。やがて、名君として名高い岡山藩藩主の池田光政に雇われることになり、長く岡山県に住んだ。
 
 江戸時代にも、岡山県はたびたび大水害に見舞われていた。特に承応三年の大水害は被害が大きかった。この時の大水害をきっかけに蕃山は旭川の氾濫から岡山の城下町を救うため、百間川という川を新たに“作った”。
 
 蕃山が指摘したのは、当時森林伐採が進み、山の保水力が弱くなっていることと、干拓によって水捌けが悪くなっている、ということだった。この二つによって河川の氾濫が起きやすくなっていると分析した。主著『集義外書』に次のように言う。
水上の水、流域の谷々、山々の草木を切り尽くして、土砂を絡み保留することがないから、一雨一雨に川の中に土砂が流入して、川床が高く、川口が埋もれるのである。その根本をよくしないで、末端だけのやりくりをしてはどうして成功しようか。(『集義外書』)
 行き過ぎた森林伐採によって山が一度禿げ山になってしまうと植林を進めてもうまくいかない。ふだん雨が降らない「晴れの国」であることが裏目に出て、なかなか木が育たないのだ。蕃山は藩主に進言し、山の行き過ぎた森林伐採をやめさせた。 
 
 しかし時代が経つと人々は教訓を忘れてしまう。
 
 明治時代には再び禿げ山が目立つようになり、上述の大災害が起こり、宇野圓三郎が立ち上がって、ふたたび治山治水事業を行った。宇野圓三郎は岡山の治山治水事業の大先輩である蕃山を尊敬しており、基本的には蕃山の思想を継承した対策を行った。
 
 岡山県には、江戸時代には熊澤蕃山、明治時代には宇野圓三郎がいた。そして水害とたたかい、治水の重要性を訴えた。そういう歴史があってもなお、今回の大水害を防げなかった。
 
 平成の大洪水の時は、山を禿げ山にしていたわけではなかった。真備地区は近隣の都会である倉敷市総社市ベッドタウンとして人口が増えて行った。住民の多くが昭和40年代以降に住み始めた比較的新しい街だったという。だからおそらく、そこがどういう経緯や由来を持った土地なのかという歴史を知ることがなかった。歴史が語り継がれなかった。土地の古老から歴史を聞くことがなかった。
 
 そうしたことが今回の大きな被害に繫がってしまったのだと思う。
 
 今年生誕400年の記念の年であることを契機にして、治山治水の大切さを訴えた熊澤蕃山の思想を見つめ直したい。二度とこのような悲劇を繰り返さない。そのためのヒントがきっとある。
 
 
(参考文献・サイト)
熊澤蕃山『集義外書』
宇野圓三郎『治水植林本源論』

富永仲基とビットコイン(後篇)

f:id:rjutaip:20190628200303j:plain

Miloslav Hamříkによる画像 ) 
前篇はこちら

 

安藤昌益と富永仲基の共通点と相違点

 「忘れられた思想家」として有名な安藤昌益と富永仲基の共通点は、どちらも当時の権威である儒教を批判したところだ。
 
 では相違点は何か。
 
 安藤昌益の思想はもっと無政府主義的であり、政府や法律なんてものには縛られず、個人はもっと自由に生きるべきだ、という考え方だった。仲基は違った。仲基は儒教批判はしたが、幕府や法には抗わなかった。抗わないどころか逆に法や秩序を遵守して「当たり前」に生きることを説いた。
 

ビットコインコア開発陣とクレイグ・ライトの対立

 クレイグはビットコインコア開発陣と激しく対立している。対立の理由はいろいろあるが、その中の一つに思想の違いがある。
 
 ビットコインの中心的開発陣、ビットコインの草創期から携わっている人たちの中にはサイファーパンクの精神が流れている。
 
 サイファーパンクというグループの思想は、例えばグループの中心的存在だったティム・メイが1988年頃に起草し1992年に発表した「クリプト無政府主義宣言」に端的に表れている。
暗号学的手法は企業の意義、経済取引における政府介入の意義を根本から変えてしまう。勃興する情報市場と相まって、「クリプト無政府主義」は言葉と画像に置き換えられるいかなるもの、すべてのものの流動市場を作り出す。(中略)立ち上がれ!「有刺鉄線」のフェンス以外に失うものはないのだから。(一部を抜粋、訳文はコインテレグラフジャパンより引用)
 この檄文に感銘を受けて立ち上がった人たちが黎明期のビットコインに関わって来た。彼らの思想は、政府や大企業といった既存の権威に立ち向かおう、政府に管理され法律に縛られるのはまっぴらだ、個人はもっと自由になろう、という思想である。
 
 クレイグもまた、サイファーパンクのメンバーの一員であったにもかかわらず、クレイグはこういう思想には賛同していなかった。クレイグは政府や法律の枠組みに従って生きることをたびたび主張している。
 

対比の構図 

 安藤昌益と富永仲基は同時代人だが、互いに面識はなかったと思われるので対立していたわけではない。だがこうして見ると、思想面での対比の構図が見えてくる。すなわち、
 
安藤昌益=ビットコインコア開発陣
 
富永仲基=クレイグ・ライト
 
である。
 
 安藤昌益=ビットコインコア開発陣は法と政府の支配に抵抗する無政府主義的思想であり、富永仲基=クレイグ・ライトは法と秩序を重んじる。
 
 私には、ビットコインコア開発陣に対するクレイグが、安藤昌益に対する仲基に見える。
 

仲基とクレイグの“秘匿”に対する考え方 

 クレイグが仲基を好きな理由は他にも考えられる。それは“秘匿”に対する考え方である。
 
 仲基は、儒教、仏教だけではなく神道も批判したが、その批判方法として「秘匿批判」を行なった。例えば、仲基が残した次のような言葉に見える。(※現代語訳は筆者による。)
扨又神道のくせは、神秘・秘傳・傳授にて、只物をかくすがそのくせなり。凡かくすといふ事は、僞盜のその本にて、幻術や文辭は、見ても面白、聞ても聞ごとにて、ゆるさるゝところもあれど、ひとり是くせのみ、甚だ劣れりといふべし。それも昔の世は、人の心すなほにして、これをおしえ導くに、其便のありたるならめど、今の世は末の世にて、僞盜するものも多きに、神道を教るものゝ、かへりて其惡を調護することは、甚だ戻れりといふべし。
 
現代語訳(さてまた神道の悪い「くせ」は、神秘・秘伝・伝授などと言って、モノを隠すところである。だいたい隠すということは嘘や盗みの元であって、仏教徒の幻術や儒教徒の言葉巧みは見たり聞いたりして面白いところがあるのでまだ許されるけれども、神道のこのくせは駄目である。それも昔だったらまだ人々の心も素直だったので、教え導く便利な方法としてアリだったのかもしれないけれど、今は末の世で、嘘をついたり窃盗する人間も多いのだから、神道を教える者は却ってその悪を擁護することになってしまっている。これは甚だ道理に反することだ。)(『翁の文』第十六節)
 こういうところにも、クレイグが仲基を好きな理由があるように思われる。クレイグはビットコインの匿名性を強く批判している。
 
 ビットコイン開発陣は、今、どちらかと言えば、ビットコインにもっと匿名性を持たせよう、という方向に向かっている。個人のプライバシーは大事であり、プライバシーを守るためにも、ビットコインにはもっと匿名性を高める技術を加えるべきだ、というのがビットコイン開発陣の主張である。
 
 しかし、仲基とクレイグは、この「秘匿」が嫌いなのである。そして、クレイグが最も気に入っている仲基の言葉「隠すことは嘘つきと窃盗の始まりだ」に繫がるのである。
 
 ただ、クレイグはけっしてプライバシーを嫌ってはいない。どういうことなのか。
 

クレイグの匿名とプライバシーの考え方 

 クレイグはプライバシーを嫌うどころか、プライバシーをとても重視している。プライバシーを大切にしたいといつも言っている。
 
 ビットコインの開発に携わっている多くの人々は、「匿名=プライバシー」と考えている。だからゼロ知識証明やコインジョインのような匿名化技術を推し進めようとしている。
 
 クレイグの中では、匿名とプライバシーは分かれているのである。二つを別のことだと捉えているからこそ、プライバシーは守るべきものだが匿名化は止めるべきもの、という考え方に至る。
 

富永仲基のビットコイン

 「富永仲基とビットコイン」というタイトルで書いてきたが、なんだかクレイグ・ライトの擁護記事のようになってしまった。
 
 冒頭の疑問に戻って、クレイグは富永仲基の著書を読んでいるかだが、私は読んでいるだろうと思う。そうでなければここまで自分の思想と合致する人物をなかなか引っ張っては来れない。仲基の主著のうち『出定後語』はともかく『翁の文』は間違いなく読んでいるだろう。
 
 サトシ・ナカモトの由来が江戸時代の思想家、富永仲基だとすると、ビットコインは富永仲基の思想が具現化されたもの、と言えなくもない。
 
 300年の時を超えて…。
 
 富永仲基は現代の日本でもほとんど知られていない思想家である。ネット検索で「富永仲基」と入力すると第2ワードに「天才」と出てくる。数少ない富永仲基のことを知っていて関心を寄せている人たちは、仲基のことを天才と見なしているということか。たしかに18世紀前半の日本の思想家としては異色の存在であり突出していた。
 
 今、ビットコインコミュニティでは、新たな匿名化技術を導入すべきか否かが議論になっている。富永仲基がビットコインのことを知ったらどう思うだろう。やっぱり匿名化には反対するだろうか。
 
 匿名化は政府に対する市民側の強力な武器になる。しかし同時に犯罪にも使われやすくなるという反面がある。仲基は嘘を言ったり盗んだりする人が多いことを危惧していた。幕府の教えを批判しつつも、法や秩序は守らなければいけないという考え方だった。富永仲基のビットコイン、それは「法や秩序に従うビットコイン」を意味する。
 
 国に協力的にも敵対的にもなり得るビットコインの存在をどう考えればいいのだろう。私にはまだビットコインの立ち位置がよく解っていない。どこまでビットコインの独立性を保ち、かつ犯罪に使われる可能性を小さくしていくか、というのは難しい問題だ。奇しくもビットコインの発明者に“なった”富永仲基に考えを聞いてみたい。
 
前篇はこちら↓

富永仲基とビットコイン(前篇)

f:id:rjutaip:20190627175153j:plain

江戸時代のビットコインの発明者?

 富永仲基という江戸時代の思想家がいる。この富永仲基とビットコインが関係している、と言ったら驚かれるだろう。江戸時代にはビットコインなんて無かった。勘のいい読者の方は「仲基(なかもと)」という名前にピンと来るかもしれない。今回はこの富永仲基とビットコインの関係について思想の面から探っていく。書いていたら長くなってしまったので二回に分けて。
 

登場人物基礎知識 

【サトシ・ナカモト(Satoshi Nakamoto)】
 ビットコインの発明者とされる人物。正体不明。国籍、性別、年齢等、一切判っていない。個人なのかグループなのかも明らかではない。英語を使う。2011年頃から表舞台から姿を消している。
 
【クレイグ・ライト(Craig S. Wright)】
 2016年に「私がサトシ・ナカモトだ」と名乗り出た1970年生まれのオーストラリア人男性。草創期の頃よりビットコインの存在を知っていたようだが、自分がサトシ・ナカモトであることを証明できていない。世間の反応は「偽者だ」という声が多い。
 
【富永仲基(とみながなかもと)】
 18世紀の日本の思想家。八代将軍徳川吉宗の頃の人。大坂の有名な私塾「懐徳堂」で学ぶ。31歳の若さで亡くなるも、後に一回り年下の伊勢の思想家本居宣長に評価され、その名を知られるようになる。
 

「自称サトシ・ナカモト」が語った名前の由来 

 ビットコインの発明者「サトシ・ナカモト」が誰であるのかは長年謎だった。今でも謎である。
 
 クレイグ・ライト(以下、クレイグ)が「私がサトシ・ナカモトだ」と名乗り出た時は驚いた。が、それ以上に驚いたのは、彼が語った「サトシ・ナカモト」という名前の由来である。
 
 「なぜ、日本人みたいな名前なのか」。これは私たち日本人は特に気になるところだ。サトシ・ナカモトはネット上で活動していた頃は日本語を使ったことはなく流暢な英語しか使っていない。
 
 クレイグが「サトシはポケモンの主人公『サトシ』から。ナカモトは18世紀の日本の哲学者『トミナガナカモト』から取った」と言った時は衝撃を受けた。
 
 クレイグは富永仲基を知っているのか?
 
 いや、その前にポケモンには一体どのような深い意味があるのか。それにその理屈から言うなら、名字+下の名前なのだから、「トミナガサトシ(Satoshi Tominaga)」にするべきだったのでは?なぜ、下の名前と下の名前を繫げたのか。
 
 だが紛らわしいことに「なかもと」という名前は日本人の下の名前としては珍しく、むしろ名字っぽい名前であることから「なかもとさとし」という名前の人は普通に居そうではある。
 
 ポケモンの方は私はよく分からないが、富永仲基の方は興味深い。
 
 クレイグ・ライトが言ってることがそもそも全部嘘だったら、この先の話はすべて成り立たない。以降の話は「クレイグが嘘を吐いていないとしたら」という前提での話になる。
 

クレイグ・ライトはどこまで富永仲基を知っているか 

 クレイグはどこまで富永仲基のことを知っているのだろう。仲基の著書を読んだのだろうか。
 
 クレイグは、富永仲基に関して次のように発言している。
「Tominaga taught us that “concealment is the beginning of the habit of lying and stealing.”(富永は語った。「隠すことは嘘つきと窃盗の習慣の始まりである」と。)」

( Satoshi Nakamoto - Craig Wright (Bitcoin SV is Bitcoin.) - Medium より)

 これは、仲基の主著の一つである『翁の文』に出てくる次の部分のことを指していると思われる。 
「凡かくすといふ事は、僞盜のその本にて、(『翁の文』第十六節)」 
 ということは、クレイグはやはり仲基の著書をしっかり読んでいたのか。と言うと簡単にはそうとも言い切れない。ウィキペディア英語版の「富永仲基」のページに「As he always said, "hiding is the beginning of lying and stealing”.(彼はいつも「隠すことは嘘つきと窃盗の始まりだ」と言っていた。)」と書いてあるのだ(2019年5月確認)。仲基の数ある言葉の中からここだけをピックアップして引用していることを考えると、単に「ウィキペディアで見た」という程度の知識である可能性もある。
 
 つまり、クレイグは自分が「サトシ・ナカモト」であると偽るために、「どうしてナカモトというハンドルネームにしたんですか?」と聞かれたとき用に、ウィキペディアで「Nakamoto」で検索してみた。そうしたら18世紀の日本の哲学者で「Nakamoto Tominaga」なる人物がいることを発見し、その哲学者の思想と言葉が気に入ったからなのだ、というもっともらしい理屈を構築した。と、そういう可能性がある。
 
 大嘘吐きのクレイグ・ライトがウィキペディアで見つけた知識を強引にこじつけて、もっともらしい理屈を作り上げた。この結論でこの話は終わってもよさそうである。
 
 ところが、富永仲基の思想をもっと深く探っていくと、クレイグと仲基の関係が単なる「無理やりなこじつけ」とも言えない関係であることが見えて来るのである。よく富永仲基を見つけてきたなというくらい、仲基とクレイグの思想的立ち位置はよく似ている。
 

富永仲基とクレイグ・ライトの3つの共通点 

 クレイグ・ライトと富永仲基には、その思想に共通点がある。以下、大きく3つの共通点をあげる。

 

1. 時代の常識に挑む 
 仲基は、当時の日本の常識であった儒教を批判した。儒教儒学)は徳川幕府が唯一公式に認めた学問であり、どのような学徒であっても儒教批判など到底認められない時代に批判を展開した。
 
 クレイグは当人が嘘を吐いていないとすれば、ビットコインを創った。これは今までの常識であった法定通貨への挑戦である。
 
2. 批判する対象のグループメンバーだった 
 クレイグは無政府主義的な思想を強く批判しているが、自身が無政府主義的思想を持った人間の集まりであるサイファーパンクというグループのメンバーだった。
 
 仲基もまた、批判の対象であった仏教を学んでいた。仏教を学ぶというのは、当時は(今でもそうだが)、仏の道を信じ、より深く仏教について学びたいと思う者が学ぶのが普通だった。だが仲基は違った。仲基はあくまでも仏教の外にいた。仲基は仏教徒でもなく仏教を信仰しているわけでもなく、あくまで学びの対象として捉えて勉強していた。そして後にその該博な知識でもって仏教批判を展開するのである。そもそも仲基が在籍していた懐徳堂にしても儒教を教える塾である。そんな塾のメンバーとして在籍しながら、後に儒教批判を展開するのである。
 
3. 法と秩序に従って「当たり前に生きよ」と説く 
 仲基は当時の常識である儒教を批判したが、にもかかわらず、政府や法律や常識には逆らわず「当たり前」に生きなさい、と言った。
今の世の日本に行はるべき道はいかにとならば、唯物ごとそのあたりまへをつとめ、(『翁の文』第六節)
 
 クレイグもまた、ビットコインを創っておきながら、政府や法律には従って生きなさい、という考えを主張している。
 
 
 この3点が二人の共通点だ。ただ、これだけではそれほど「似ている感」が伝わらないかもしれない。もっと似ている感を感じてもらうために後篇では、対比の対象として安藤昌益にご登場いただこう。
 
後篇はこちら↓
 
【関連記事】

デジタル化とは何か

f:id:rjutaip:20190626175049j:plain

 
 最近の政府のデジタル化に関する施策を見ていると、「デジタル化」を勘違っているのではないか、デジタル化とは何かということが解っていないのではないか、と心配になる。
 
 政府が今進めている「デジタルガバメント実行計画」。私は当初、この計画に賛成だった。特に横の連携を重視する「コネクテッドワンストップ」の理念に大きく共感していた。
 
 今でも、
 
1. デジタルファースト
2. ワンスオンリー
3. コネクテッドワンストップ
 
の三原則の内、2番と3番に関しては賛成である。
 
 だが。1番の「デジタルファースト」が気になる。
 
 政府の人間は「今どき紙なんてもう古い。これからはデジタルの時代です」と言って、あらゆる手続きを紙からデジタルに移行しようとしている。もし「デジタルファースト」の意味が「紙からデジタルへの移行」を意味しているのなら、私はこの計画には反対である。
 
 「デジタル化」とは、当然にデジタルでもできなければいけない手続きをデジタルでもできるようにすること、である。
 
 紙をなくすことには大きく二つの害がある。
 
一つは、デジタル機器の操作が苦手な高齢者が困ること
二つは、ネットの大規模障害があった時の代替手段がなくなること
 
である。
 
 世の中にはパソコンやスマホの操作が苦手な高齢者がいっぱいいる。これを「老害」と言って切り捨ててはいけない。
 
 また、インターネットの大規模通信障害や大規模停電といったことは過去にも起こっていることである。そうした非常時にも手続きができるよう、紙の手続きは残さなければならない。
 
 これはちょうどかつて「バックアップ」を誤解していた人たちに似ている。
 
 昔はパソコンがよく壊れた。それでパソコンの中に保存していた写真などのデータが取り出せなくなることがよくあり、「バックアップ」の重要性が言われた。その時にパソコンの中のデータを外付けハードディスクなどに移して、「バックアップした」と言っている人がたくさんいた。バックアップとは、カット&ペーストではなく、コピー&ペーストである。「移行する」のではなく、同じデータを二つ以上の場所に同時に保存しておくことである。
 
 それと同じような誤ちを政府は繰り返そうとしている。
 
 デジタル化推進担当には、政府内でもITに詳しいデジタル好きな人が選ばれるのだろう。そういう人に任せると、「紙なんて今どき古いから、ぜんぶデジタル化しましょう」と言って、紙を廃止する方向に持って行く。
 
 今の人は、すぐに「コスパ」、「効率化」と言う。たしかにデジタルと紙の並立はコストがかかる。効率も悪いかもしれない。だが、コストがかかっても、やらなければいけないことはやらなければいけないのである。
 
 デジタル化はそれが「便利」だから進めるのではない。当然にやらなければいけないことだからやるのである。
 
 今、日本の会社内では、ほとんどの手続きがデジタル化されている。ところが役所だけが、平日の日中に(!)役所まで足を運んで何枚もの紙の申請用紙に記入しなければ手続きをしない、と言って、会社勤めの人たちを徒に苦しめている。
 
 ヨーロッパのいくつかの国ではとっくにデジタル化(手続きのオンライン化)がなされており、技術的に決してできないという話ではない。
 
 デジタルの手続きと紙の手続きは両方なければいけない。「デジタル化」ということをなんとなく「紙からデジタルに移行すること」と捉えていたら、大きく道を誤る。
 
【関連記事】

【追悼Hagex】Hagexさんの正義

f:id:rjutaip:20190624192518p:plain

 Hagexこと岡本顕一郎さんが福岡で刺殺されて今日で一年が経つ。
 
 私はまだこの事件についてうまく心の整理ができていない。
 
 私は、Hagexさんとは知り合いではない。事件が起きるまで顔も本名も知らなかった。ネット上で言葉を交わしたこともなかった。ブログ「Hagex-day.info」の購読者でもなかった。なので、以下の文章は多少、推測で書いている部分もある。ただ数年前から一方的にHagexさんのことは知っていた。はてなブックマークで時々、Hagexさんの書いた記事がホットエントリ入りしている時に、たまに見ていた。
 
 知り合いではなく一方的に知っていただけの人なのに、事件のショックは大きかった。こんなに釈然としない理不尽な事件もないと思った。
 
 事件後、初めてHagexさんのブログをトップページから見てみた。Hagexさんの考えていたことを少しでもわかりたいと思ったから。しかし見てみて驚いた。何万にも及ぶ厖大な過去記事があった。とても読みきれない。毎日どころか一日に複数回更新しているのである。
 
 そしてもう一つ驚いたのは、ブログ記事の大半は2ちゃんねるからの転載文だったことだ。2ちゃんねるから一部の文章を切り取って転載し、そこに「これはこわい」「これはすごい」など、たった一言コメントをつけているだけの中身のない記事だった。ざっと見、9割方はそうした中身のない記事で、たまに自分の言葉で書いた記事がありそれがはてなブックマークでホットエントリ入りしていた。
 
 なぜHagexさんはこんなにたくさんの中身のない記事を量産していたのか。それを考察する過程で少しづつHagexさんが考えていたことが朧気に見えてきた。
 
 世間の反応の中には“誤解”と思われるものも少なくない。ここではその誤解を一つ一つ解いていくとともに、Hagexさんの「正義」とは何だったのかを考えたい。
 
目次

闇の事件ではない 

 事件後、新聞では「IT講師」、「ダークウェブの専門家」といった紹介がなされていた。これを見た人は「インターネットの闇の世界に詳しかったから、闇の世界の人に殺されてしまったのだろう」と誤解した人もいたのではないか。Hagexさんは本業では確かにダークウェブのことには詳しかったようだが、事件は「はてな」という「表ウェブ」の世界をきっかけにして起きた。闇でもなんでもなく、堂々と表のウェブの世界の話だった。
 
 容疑者は、はてなで「低能先生」と呼ばれていた。そうやってからかわれていたから逆上して犯行に及んだのだ、からかっていた人たちの自業自得な面もある、事件の経緯に詳しくない人の中にはそう思っている人もたくさんいるようだ。
 

低能先生」はHagexさんが使い始めた言葉ではない

 しかしHagexさんが容疑者のことを「低能先生」と呼び始めたわけではない。むしろ「低能」という言葉は容疑者の方から先に使い始めた言葉だった。容疑者ははてな匿名ダイアリーはてなブックマークで、いろんな人に向かってIDコールで「低能」だの「馬鹿」だのという中傷の言葉を投げかけていた。あまりにもそれがエスカレートしていたので、それでいつしか、はてなブックマークユーザーたちから「低能先生」と呼ばれるようになっていった。「低能」の後に「先生」を付け始めたのが誰かはわからないが、Hagexさんではないだろう。
 

通報は他のみんなのため 

 Hagexさんがブログで「低能先生」に言及しているのは、私が見た限りではたった一回くらいで、「いわゆる『低能先生』と呼ばれている人がいる」と書いている。そして、IDコールによる誹謗中傷という迷惑行為について、はてな運営に通報したと書いている。Hagexさん自身もたびたび罵詈雑言をかけられ、「私のように罵詈雑言に慣れている人は問題ないけれど、いきなり罵倒がくると、たいていの人は怖がってしまう」から通報しているのだと、他の人を思いやっての通報なのだと書いてあった。
 
 容疑者は次々とIDを変えていたが、Hagexさんらの通報により、はてなサービス上で口を封じられ、それが怒りに繋がっていったと思われる。
 

低能先生は復讐の相手を間違えている

 今回の事件が許せないのは、もし容疑者の“復讐”という気持ちに同情するとしても、復讐する相手を間違えているからだ。ネットの「お前ら」への復讐だと言うならネットの「お前ら」全員に復讐すべきであって、なぜHagexさんが狙い打ちされなければならなかったのか。
  

「Hagexの自業自得」ではない

 「Hagexの自業自得」みたいな言い方をする人も多い。「Hagexはネットで人をおちょくったり、からかったりしていたから、こういう痛い目に遭ったのだ」と。
 
 しかし、Hagexさんがおちょくったり、からかったりする対象にしていた人たちは、今回の容疑者とはまったく別の人たちである。たしかにHagexさんは何年かに渡って特定の有名人を批判の対象にしていた。そういう対象にされていた人が逆上して犯行に及んだ、というのならまだ分かる。だが容疑者は違う。Hagexさんにずっとからかわれていたわけでもなく、言い争いになっていたわけでもない。私の把握している限りでは、Hagexさんは容疑者(低能先生)については、ブログで一回、ブックマークコメントでも一回程度しか言及していない。
 

Hagexさんの“いじり”は怒りからくる“批判”

 「Hagexのいじりは度が過ぎていた」と言う人もたくさんいる。Hagexさんの誰かに対する批判は、たしかに“いじり”、つまり「おちょくり」や「からかい」の形式を取っていることが多かったが、“いじり”の形式をとった“批判”であった。つまり不正(とHagexさんが感じること)に対して批判していたのであって、どうでもいいことを暇つぶしにからかっているわけではなかった。
 

Hagexさんの“いじり”は必ず自分より強い者に向けられていた

 これはとても肝腎なことだと私は思っている。Hagexさんの“いじり”は必ず自分(Hagexさん自身)より強い人に向けられていた。「いじりはいじり、いじめはいじめ、じゃないか」と言う人がいるが、弱い者いじめとはまったく違う。自分より強い人への批判を「いじめ(いじり)」と言うか?Hagexさんがブログで長期にわたって批判の対象としていた人は、ネットの世界でもリアルの世界でも、Hagexさんよりずっと大きな影響力を持った有名人だった。Hagexさんは自分より弱そうな人は批判(いじり)の対象にはしなかった。
 

「Hagexは調子に乗っていた」?

 私が残念に思うところの一つは、多くの人が「Hagexは調子に乗りすぎていた」と思っていそうなところだ。そして実際にはHagexさんはそこまで調子に乗っていなかったというところだ。調子に乗っていたならまだいいのだ。
 
 Hagexさんがサングラスをして舌を出している写真がある。割と有名な写真で、こういう写真のおかげで「調子に乗っている」というイメージがあるかもしれない。
 
 Hagexさんはかなり昔からブログ「Hagex-day.info」を書いていたようだが、記事がはてなブックマークに頻繁にホットエントリ入りするようになったのは、ついここ6〜7年のことであり、さらにリアルの世界で活動をし始めたのは2018年頃からである。つまり、ネットで有名になったのもつい最近のこと。リアルの世界では、Hagexさんが批判の対象としていた人たちがずっと昔からリアルで大活躍しているのにくらべて、Hagexさんはまったく活躍してなく(本業の仕事は知らない)、2018年に入ってから漸く、リアルの世界で活躍の幅を広げていこうとしていた矢先だった。福岡の講演会も、まさにその一歩だった。
 
 ブログを更新し続けること苦節十数年。30代後半になってようやくネット上で少し有名になることができ、40代になってようやくリアルで少しだけ活躍の場が出てきた。これが「調子に乗っていた」人の人生か?
 
 Hagexさんは、私たちが思っているほど調子に乗れていたわけではなかった。
 

危機感が足りなかったわけではない 

 今回の事件を受けてネット上には「荒らしはスルーするにかぎる」とか「やっぱり顔出しとかしちゃいけないんだ」と言っている人がたくさんいたのも残念だ。
 
 「荒らしはスルーするにかぎる」。自己の保身のみを考えるならそれは正しい。しかしみんなが自分の身の安全のことだけを考えてスルーしていたら、荒らしは荒らし放題、誹謗中傷し放題になる。Hagexさんはネットが好きだったからこそ、ネットの世界がそのように荒れ放題になってゆくのは嫌だったのだろう。「低能先生」を通報したのも、「ネット私刑」、「ネットリンチ」として面白がって通報していたわけではなく、「私のように罵詈雑言に慣れている人は問題ないけれど、いきなり罵倒がくると、たいていの人は怖がってしまう」から、初めての人、慣れていない人が怖い思いをしなくて済むように、という思いからの行動だった。 
 
 Hagexさんはネットセキュリティのプロだから、もちろん顔バレ、身バレはしないように細心の注意を払ってはいた。しかし、思うに、Hagexさんはそういう世界が嫌だったのではないか。2018年からリアルの世界に軸足を移しだしたのも、「もっと顔を合わせて話し合おうよ」という気持ちがあったのではないか。Hagexさんは、「ネットでいがみあっている人たちも会ってみれば案外いい奴」という世界をどこかで信じていたのだという気がする。
 

Hagexさんの“いじり”、“いじめ”に対する考え方

 Hagexさんのことが「いじめっ子」に見えていた人がいる、というのも意外だ。Hagexさんは決して自分より弱いものに攻撃を向けなかった。それはHagexさんがブログに書いていた次のような言葉からも分かる。
 
「毒舌」は私も好きですが、これって「強い人」にぶつけないと、イジメなんですよね。非難される前の小保方さんに対してこの記事をぶつけたら「素敵な毒舌」なんだろうけど、周りからフルぼっこ状態でこの記事じゃ「単なるイジメ」じゃん。(2014年3月25日の記事より) 
 自分が毒舌であること、そして、それは必ず強い人に向けるように意識していたことが、この言葉からも分かる。
 

「Hagexはダブルスタンダード」?

 「Hagexはダブスタだった」と言う人もいる。いじめは良くないと言いつつ自分もいじりをしていたではないか、というわけだ。
 
 「いじり」は揶揄、からかいである。揶揄は自分より強い者にも弱い者にも向けられる。総理大臣や大統領を揶揄したりすることもある。だが「いじめ」は自分より弱い者に向けられるものだ。
 
 Hagexさんは自分より強い者を「いじる」ことはしても、自分より弱い者を「いじる」ことはしなかった。弱い者をいじることは「いじめ」なのだとHagexさんは言う。まだ問題が広がる前の小保方氏ならともかく、すでに多方面から非難を浴びて弱い状態にある小保方氏をいじってはいけない、とHagexさんは言う。
 

Hagexさんは相手を選んでいた 

 Hagexさんは、ブログで取り上げる対象にする人を慎重に選んでいた。誰でもいいからおちょくっておけ、というスタイルではなかった。それは次のような言葉からも窺える。
 
私もこの日記でいろいろと書いてるけど、ターゲットが「自殺」したらどうなるか? はいつも考えている。ネットでは大言壮語だけどガラスのようなハートを持った人もいるので、個人的には気を使っている(2013年6月25日の記事より)
 自分自身が人を傷つける側に回らないよう、気を遣っていたことがわかる。例えば、Hagexさんは家入一真氏を“対象”として取り上げていたが、途中からだんだん家入氏に対する見方が変わってきたようで、一人の人物として“認めている”印象すら受ける。そして家入さんみたいな人だったら自分も安心して取り上げることができる、という趣旨のことを言っている。ここには(家入さんの方が力が上だから自分みたいな弱小ブロガーが少しくらいのことを言っても大丈夫だ)という前提がある。
 
 HagexさんのブログのPVが増えてきて、自分自身が、今まで批判の対象として来た人たちの影響力に近づいて来た頃には、こんな自重の言葉も残している。
 
「PVなんか気にせず、好きなことを書くのがブログの醍醐味であり、そうあるべき」というのが私の信条なんですが、アクセス数が増えると、やはり慎重になってしまうんですよね。ブログやSNSで「未成年の飲酒だぜ、けけけ」というコンテンツを見つけても、昔のように晒し上げのエントリーを書けません。やるときは、やるけど、どーしてもPVが多いと慎重になります。個人的には「アクセス数がある、影響力のあるサイトは無責任に運営してはいけない」とも考えている(2014年6月25日の記事より)
 

Hagexさんはゲスな人ではなかった

 「ゲス」とよく言われたが、Hagexさんはゲスな人ではなかった。ゲスなフリをしているだけの人だった。「自分でもゲスだなぁと思いますけど」と言っていたが、彼のブログをよく読めば、そんなにきつい言葉や酷い言葉を使っていなかったことがわかる。
  

ブログの更新は“たたかう”ため

 なぜ、猛烈な勢いでブログを更新していたのか。そのヒントらしき言葉が、2011年の大晦日に書かれた記事の中にある。
 
2011年は、ヘッポコ日記が飛躍した年でありました。2011年1月では月間69万5000PVでしたが、6月に月間100万PV、9月以降は月間200万PVを突破しております(12月は220万PV)。アクセス数は自己満足の1つではありますが、個人的には「ケンカ」をするときに、大変有効な武器になると考えています。PVは充分に稼げたので、来年これを使っていろいろと花火を上げたいと思いますので、応援をよろしくお願いします。(2011年12月31日の記事より)
 言わばネットの専門家であったHagexさんには、普通の人には見えない、巧妙な釣りや大掛かりなステマがよく見えた。だからそういった巨悪を取り上げて批判したかった。だが何の肩書もない弱小ブロガーが批判したところで、大悪人たちは痛くも痒くもない。そういった強い悪人たちと喧嘩するためには先ずは自分がある程度強くならなければならなかった。強くなるというのは影響力を持つということ。Hagexさんがブログを猛烈な勢いで更新してPVを増やしていたのは、アフィリエイト収入のためではなく、ネット上の強い人たちと闘えるだけの影響力を獲得するためだった。
  

Hagexさんはなぜ殺されなければならなかったのか

 Hagexさんの事件はあまりにも理不尽である。Hagexさんが対象としてよく取り上げていたH氏という女性やI氏という有名な男性ブロガーに殺されるのならまだ分かるが、低能先生はHagexさんの“対象”ではなかった。
 
 低能先生は次々とはてなアカウントを凍結されて恨みを持っていたという声もあるが、はてな運営に通報していたのがHagexさんだけとは限らない。しかもHagexさんが通報していたのは個人的な復讐だとか面白がって、という理由ではなく、他のみんなが怖がらなくてすむためであったことは上記にも書いた通りだ。
 
 Hagexさんはむしろ、どちらかと言えば、低能先生のような弱い者の味方だった。絶対に攻撃対象ではなかった。
 
 低能先生はネット上だけでHagexさんを見、頭の中に勝手に「Hagex像」を作り上げて恨みを募らせ、兇行に及んだ。実際に会って話してみたら、自分の敵ではない、むしろ味方なのだということが分かったはずなのだ。
 
 福岡はHagexさんの故郷だった。勉強会は規模は小さいながらも「故郷に錦を飾る」ものであったはずだった。
 
 低能先生は襲撃した時に、自分は「低能先生」でおまえに恨みを持っていた、とHagexさんに伝えたのだろうか。それとも、Hagexさんはその男が誰で、なぜ自分を襲ったのかも分からず亡くなっていったのだろうか。
 
 こんなつまらない殺され方が返す返すも残念だ。
 

Hagexさんが思い描いていた世界

 これは私の勝手な想像だが。
 
 Hagexさんがネットでやっていたことは、からかいやおちょくりといった方法を取ってはいたが、基本的には、私たち一般人が悪質な「釣り」やら「ステマ」やらに引っかからなくて済むように注意喚起をしてくれる善意の啓蒙活動だった。
 
 最期の3か月ほどの短い期間、友人だったというフミコフミオ氏がHagexさんから「フミコさんもネットから出ましょうよ」と言われたという話が印象に残っている。
 
 2018年、Hagexさんは、確実にネットからリアルに軸足を移そうとしていた。
 
 もうネットは充分。もう自分はネットではじゅうぶん力を蓄えた。これからはリアルの世界でたくさんの人と直接会って話し合ったり、自分がネットで得た様々な知見を広めていきたい。その活動の一つが「かもめ勉強会」だった。
 
 ネットのからくり、釣りやステマフェイクニュースの仕組み、ネット上の傍若無人な人との接し方、闘い方、そういったものを教え、でもその力を弱い者いじめに使わないでくださいね、必ず「悪いことではなく正義のために使ってください」ね、それがHagexさんの「遺言」になった。
 
 ふだんあまりテレビドラマを見ない私だが、2018年10月にNHKのドラマ『フェイクニュース』を見た。ドラマの最後に流れるクレジットに、Hagexさんの本名が流れた。北川景子主演のこのドラマには、悪意のある嘘ニュースを流す人物と、そうした根も葉もない情報に流されてしまう大衆が描かれていた。みんなネットの情報に踊らされていませんか?、もっと直接会って話し合いましょう、人を信じましょう、そういうメッセージが込められたドラマだったと思う。そしてこれはおそらくHagexさんのメッセージでもあったのではないか。
 
 Hagexさんにとってこれまでのネット上の活動は、言わば助走期間だった。力を蓄えてその力をリアルの世界で良いことのために使っていく。これからが本番だった。もう「ネットのゲスな自分」は卒業して、(いや、ひょっとしたらそっちも引きつづき続けていたかもしれないが)、勉強会を開いて今までの知見を人々に還元していきたい、そして「正義の味方」を少しづつ増やしていきたい、そんなことを考えていたのではないか。
 
 だからこそ、Hagexさんという人物が、その「前半生」だけで評価を下されるのが私は悔しい。
 
 ネットを愛していた。誰よりも詳しかった。ネットの表も裏も知り尽くしていたがゆえに、邪悪なからくりや人々の流されっぷりもよく見えた。Hagexさんが取り上げていたのは「未成年の飲酒」などという小さな不正ではなく、大きな不正だった。あそこまで大きな不正を暴く芸当ができる人は他になかなかいない。「正義」であったかどうかは置いといても、少なくとも「正義」についてまじめに考えていた。
 
 私もネットの世界ばかりに籠もりがちになるところがある。そして気づいたら自分の知識がネットで得た情報ばかりで、視野が狭くなっているのではないかと感じることがある。「まだネットなんかしてるんですか」というHagexさんの声が聴こえてきそうだ。
 

Libraホワイトペーパーを読んで

f:id:rjutaip:20190620101545j:plain

フェイスブックがLibraの詳細を発表 

 フェイスブックが暗号通貨「Libra」のホワイトペーパーを発表した。文書の最後に「ぜひご意見をお寄せください」と書いてあったので、感想文を。
 
 私は、Libraには今はまだ懐疑的だ。ホワイトペーパーを読んでも「すごい!」という感想はなく、ただパートナー企業はすごい顔ぶれだとは思った。
 
 ホワイトペーパーには良いことが書いてある。
世界中で、貧しい人ほど金融サービスを受けるのにより多くのお金を払っているのが現状です。一生懸命働いて得た収 入は送金や借越やATMの手数料に消えていきます。
  立派な心がけだ。
人には合法的な労働の成果を自分でコントロールする生まれながらの権利がある、と私たちは考えます。
私たちには全体として、金融包摂を推進し、倫理的な行為者を支援し、エコシステムを絶え間なく擁護する責任がある、と私たちは考えます。 
 口座を持たない貧しい人々に届くサービスを作りたい、という理念は一見すばらしい。「倫理的な行為者を支援し」と書いてある。フェイスブックをはじめ、参加企業が本当に倫理的に行動するなら、それはすばらしいことだと思うし、応援したい。
 
 しかし、本当だろうか。
 
 もし、このLibraの発表でフェイスブックの株が上がるのなら、それは「貧しい人々のため」ではなく「フェイスブックのため」だ。
 

私が感じる三つの懐疑点 

一、電子マネーと何が違うのか
二、フェイスブック主導でオープンなサービスができるか
三、貧しい人々が救われるか
 

一、電子マネーと何が違うのか

 Libraは、いわゆる従来の「電子マネー」と何が違うのだろう。Libraはステーブルコインだという。とすると、価値の源はドルにある。Libra自体に価値はない。Libraの価値があるとすれば、それはおそらく「使い勝手」にある。使い勝手をある程度自分たちで自由にデザインできる。デジタルであることの使いやすさはもちろん、初めから参加企業が多いので、使う用途も豊富にありそうである。ただ、それ以上の新しい魅力を今のところ見出だせない。ブロックチェーンを使う理由も見出だせない。従来の電子マネーで実現できそうなことになぜブロックチェーンを使うのかがわからない。 
 

二、フェイスブック主導でオープンなサービスができるか 

 「オープンソースにする」と言っているし、「オープン」にこだわっている。ブロックチェーンも最初は許可型だがいずれ非許可型に持っていきたいと言っている。
 
 だが、私の中のイメージでは、フェイスブックはオープンとは逆の世界から来た企業だ。
 
 フェイスブックはオープンなインターネットの世界の中に、会員制のクローズドなサービスを作った。フェイスブックが楽しくないというのではない。会員になったらおそらく楽しいだろう。そういうサービスは他にもいっぱいある。アマゾンもグーグルも楽天も、アカウント登録さえすればそこには便利で楽しい世界が広がっている。
 
 しかし、オープンにして貧しい人々にサービスを届けるということは、フェイスブックがこれまでやってきたクローズドなサービスとは真逆のことである。「会員登録したら便利で楽しいサービスが使えますよ」というのは当たり前なのである。それは「銀行に口座を作ったらなにかと便利ですよ」と言ってるに等しい。
 
 銀行の口座を持てない人たちにも届くように、という理念で始めるサービスなら、なんらかの「会員制」の形を取ってはいけない。Libraは最初は「許可型ブロックチェーン」から始めるがゆくゆくは(5年以内には)「非許可型ブロックチェーン」に移行したいと言っている。だが、合意形成アルゴリズムとしてBFT(Byzantine Fault Tolerance)を採用しているらしい。この「会員制」の性格が強いアルゴリズムでどうやって非許可型ブロックチェーンに持って行くのだろうか。(追記:5年以内にPoS(Proof of Stake)に移行する予定であるとのこと。)
 
 今までさんざんクローズドなサービスを提供してのし上がって来たフェイスブックが、オープンなサービスを作っていけるのだろうか。 
 

三、貧しい人々が救われるか 

 銀行口座を持てない貧しい人々を救いたい、という理念からの行動であれば、私は応援したい。
 
 しかし「金融包摂」というのは難しい。
 
 インターネット自体がそうだが、ネットワークというものは双方向性を持っている。今まで金融ネットワークに繫がっていなかった人たちが、Libraネットワークに包摂されることで、却ってGAFAのような大企業に搾取されやすくなるのではないか、という危惧がある。
 
 ステーブルコインはビットコインよりも法定通貨に近い。それは人々の生活を助ける利便性の高さという利点でもあり、弱肉強食の市場原理に絡め取られやすいという欠点でもある。
 

まとめ

 今回の発表を見て感じたのは、参加企業の顔ぶれのすごさである。ebay、PayPal、stripe、Coinbase、xapo、VISA、等々。これだけの企業が集まれば、確かに世の中にたいして何らかの影響力を及ぼすものになるかもしれない。
 
 それだけに心配なのだ。これらの大企業が社会的責任を第一義に考えて行動できるか、それとも「わたしたち会員企業が儲かりました」に終わるのか。フェイスブックは今やチャレンジャーではない。世界的な大企業である。その大企業が本当に「自分たちの利益のため」よりも「貧しい人々のため」に行動できるか、暫く注視したいと思う。
 
【関連記事】