漸近龍吟録

反便利、反インターネット的

頭の固い明治時代人とライト兄弟

 
 常識に捉われた物の考え方しかできない頭の固い人間が嫌いである。
 
 何か提案したり批判したりする度に「そんなのは理想論だ」とか「そんなのできっこない」と言う人たちは現代にもたくさんいるし、昔もたくさんいただろう。
 
 彼ら頭の固い現実主義者たちの口ぶりは大抵決まっている。
「そんなのできっこない」
「現実問題として」
「常識的に考えて」
「そんなのは理想論」
 

 
 明治時代の人たちの会話。
 
「というわけで今度みんなでアメリカに行くことになりました」
 
(私は船は苦手なので乗りたくありません)
 
「そんなこと言ってもしょうがないでしょう。船に乗らないでどうやってアメリカに行くんですか」
 
「あなた一人だけ泳いで行きますか?それとも空を飛んで行くの?(笑)」
 
「空を飛ぶなんて無理。人間にはそんなことは絶対できません。」
 
「未来永劫、人間が空を飛ぶなんてあり得ません。ええ、断言できますよ。なぜなら過去、人類の長い歴史の中で空を飛んだ人間なんて一人もいないからです。考えてもごらんなさい。あなたは空を飛べたらいいなと思ってるかもしれないけど、あなたが考える程度のことは、世界にも同じようなことを考えている人が他にたくさんいるんですよ。それなのに現に空を飛ぶ方法は無い。なぜだと思いますか?不可能だからです。これぐらいのこと、私がいちいち説明しなくても、ちょっと考えればわかりそうなものだけど…」
 
「あなたは無知だから知らないでしょうが、大英帝国ニュートン博士という人が『重力』というものを発見したんです。重力という力であらゆる物体は地面に引きつけられているんです。だから人間も飛べないし、機械に乗って空を飛ぶこともできないんです」
 
「もし、人間が空を飛べるんだったら、今ごろ誰かがそういうものを発明して空を飛べてるはずですよね?」
 
「あなたもいい大人なんだからそんな子どもみたいなこと言ってないで、もっと現実を見ましょうよ」
 
「Bさんを見てごらんなさい。あの人だって本当は船は苦手なんですよ。でも文句一つ言ってないでしょ?そりゃ誰だって何十日間も船に揺られるのは嫌ですよ。でもそれに文句を言ったところで始まらないでしょ?」
 

 
 なぜ「始まらない」のか。始まらないのはあなた方のほうだ。
 
 これが日本人。「私は船は苦手です」と言っただけで、方々から「そんなことに文句を言ってもしょうがない」、「もっと現実を見ろ」の大合唱。
 
 そこで、「彼が船が苦手なら、船を使わずに異国に行ける方法をみんなで考えよう!」となぜ言えないのか。
 
 そういう頭の柔らかい考え方ができるのがアメリカ人なんだと思う。アメリカで次々にイノベーションが生まれて日本でちっとも生まれないのは、こういう国民の思考性の違いにあると思う。
 
 ライト兄弟に「人間は空を飛べない」という常識をひっくり返されたにもかかわらず、それでもなお現代の日本人もこの明治時代人たちとまったく同じことを言い続けている。曰く、「そんなことに文句を言ってもしょうがない」「そんなことできっこない」「ちょっとググればわかりそうなものだけど」。
 
 グーグルを万能だと思い、あなたが考える程度のことはグーグルに答えが載っていると言い、グーグルに載っていない=できない、と見做す。「ちょっとググればわかる」などと言っている人間はグーグルの範囲内でしか生きられない。グーグルを突破するイノベーティブな発想ができない。
 
 「人類誕生以来、過去に一度もなかった」ということを論拠にして、「だから未来にも絶対にない」と断言する人もたくさんいる。そういう人たちはライト兄弟の飛行を目の当たりにしても、自分の過去の発言は忘れて、「まさかこんな時代が来るとはねぇ」と言うだけだ。
 
 私は基本的に「反便利の精神」なので、ライト兄弟は好きではない。だが、それ以上に頭の固い人が嫌いなので、そういう人たちの鼻を明かしてやったという点において、ライト兄弟は好きなのである。
 

年末年始休という謎の休み

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Andreas Lischkaによる画像

 昔からずっと不思議だった。
 
 年末年始はなぜ休みなのか。
 
 カレンダーを見てみる。1月1日は赤くなっている。だがそれ以外の12月30日も31日も1月2日も3日もすべて黒字で書かれている。
 
 年末年始は企業も行政機關も当たり前のように休むけど、いったい何の根據があって休んでいるのか。
 
 調べてみた。
 
 企業や店は法律はなく、ただ慣習で休んでいるだけ。
 
 公務員の場合、「一般職の職員の勤務時間、休暇等に関する法律」という法律があって、その14条で12月29日から1月3日までは休日と定められている。この法律を元に休んでいるわけだ。
 
 しかし、この法律は公務員や行政機関にのみ適用される。企業、店、病院等は特に決まった法律があるわけではない。そしてこの法律の起源は明治6年に定められた太政官布告である。
 
 こういうことを言うと「年末年始くらい休ませろ!鬼か!」と言う人が出てくるが、私は普段好きな時にもっとどんどん休みをとればいいと思う。
 
 ゴールデンウィーク、盆休み、年末年始。大体の日本人にとってまとまった休みは、一年でこの三回だけである。そしてたったのこの三回に皆で一斉に休みを取る。なぜ「いっせーのせ」なのか。
 
 毎年、12月29、30日頃には帰省ラッシュのニュース、1月3日、4日頃にはUターンラッシュのニュース。東京駅で新幹線から降りてきたお父さんがぐったり疲れきった様子で「明日からまた仕事です」とTV局のインタビューに答えている。
 
 これで「休んだ」ことになるのか?日本人は渋滞や長蛇の列に並ぶのが趣味なのか?全国で同時期に一斉に休むからこういうことになる。
 
 「実家に帰って正月を迎える準備をしなければ」と言う人もいるかもしれない。私の祖母は伝統的なしきたりや慣習をとても重んじる人で、11月頃から何週間もかけて正月をきちんと迎える準備をしていた。たったの一日や二日で何が準備できると言うのか。
 
 「せめて三が日ぐらいまでは正月気分でいたい」と言う人がいるかもしれない。だが、それもおかしいのである。今のお年寄りたちに話を聞くと、昔は1月20日くらいまでは正月気分で、会社に行っても働いているような働いていないような、という雰囲気で、20日を過ぎた頃くらいから徐々に元通り真面目に働き出す、という会社が多かったらしい。それは会社だけではなく店も同じで半分休業半分営業という雰囲気が世の中全体にあったと言う。
 
 つまり、昔はもっと「正月」というものは長かったのに、段々と短くなっていって、今では1月2日にはもうすでに正月気分はない。
 
 「正月」は昭和の頃に比べてどんどん短くなり、ほんの数日にぎゅっと圧縮され、その僅かな間に慌てて帰省し慌てて戻る。休み中は子ども相手と渋滞ラッシュでくたびれ果て、次の日からすぐ仕事。
 
 こんな「苦行年中行事」は改めるべきだ。
 
 時代に合っていない旧い法律を改めて公務員は年末年始も働くようにした方がいい。もともと法律に縛られていない民間企業は率先して年末年始も働こう。
 
 あと、「年末年始まで働けと言うのか!鬼!」と言う人は、年末年始に電車に乗って初詣に行くべきではない。鉄道会社の人がかわいそうだろう。年末年始にインターネットも使うべきではない。インターネットプロバイダー会社の人がかわいそうだろう。
 
 私の職場は、12月は31日まで仕事。1月は2日から仕事だ。1月1日は何故休みかって?1月1日は元日(がんじつ。元旦ではない)という祝日だから休みだ。
 
 昭和の頃に年末年始が休みだったのは、その後1月20日過ぎまでなんとなくダラダラ休める、ということがセットとしてあった。だが今はもうとっくにそんな雰囲気は無い。それなのに年末年始休という旧習だけが残っているのは徒に日本国民を苦しめているだけだ。
 
 公務員の法律も、「なんとなく習慣だから」で年末年始を休みにしている会社や店も、在り方を見直すべきである。

日本人のデジタル音痴

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Sara Tordaの画像
 
 「デジタル音痴」と言うと一般的には、パソコンやスマホを使いこなせない人、という意味になる。「いますよね、今どきパソコンを使えなかったりスマホを触ったこともない人」。
 
 だが、ここで私が言う「デジタル音痴」とはそういう意味ではない。「デジタル」に対するセンス(感覚)の無さ、である。
 
 例えば、もう10年以上前から時々話題になる「デジタル教科書」。なぜデジタル教科書を導入するか、と問うと、「デジタル教科書にすると、今まで紙の写真では分からなかった動物の動きなどがよりリアルにより鮮やかに感じ取れるようになるんです」と言う。
 
 これが日本人の「デジタル」に対する考え方である。
 
 だから日本企業はテレビを「より高画質に」することに何十年も力を注いできた。「動植物の動きがより鮮やかにリアルに感じられる」、その程度の理由ならデジタル化することに大したメリットはない。紙の教科書にはそれを上回るメリットがたくさんある。そうではなくて、デジタル化の本質は「情報化」にある。たとえば教科書がインターネットに繋がってそこからたくさんの情報にアクセスできるようになることがデジタル化の意義である。
 
 これは、デジタル黒板、電子お薬手帳でも同じことである。それがネットに繋がっておらず、単に紙を電子に置き換えただけのものなら、それにどれだけのメリットがあるだろう。セキュリティ上敢えてそうしている場合を除いて、インターネットに繋がっていないパソコンやスマホに何の意義があるだろう。        
 
 で、その最たるものはマイナンバーカードに対する国民の認識である。マイナンバーカードは批判が多くほとんど好かれていないが、たまにマイナンバーカードを褒める声を見る。
 
「コンビニで住民票を取得できるのが便利だ」
 
というような声である。紙の住民票を、わざわざ役所まで取りに行かないでコンビニで取れることを喜んでいる。この声には日本人のデジタル音痴っぷりが見事に象徴されているように思う。コンビニまで歩いて行って、コンビニのコピー機で紙の住民票を手にして、それを便利だ!と言っているのである。
 
 マイナンバーカードというのは、あらゆる手続きをオンラインでできるようにするために作られたカードである。コンビニまで行ってそこでカードを使って紙の住民票を取得できるようになることが「デジタル」なのではない。
 
 最近も、全国の小中学生に国が一人一台のパソコンを普及させる、というニュースがあった。どうも日本人は「パソコンこそデジタル」と思ってる節がある。パソコンは単なる手段であって学校内にネット環境を充実させることこそ肝腎である。
 
 繰り返しになるが、私の言う「日本人のデジタル音痴」とは、「パソコンやスマホを使うのが苦手」「使いこなせていない人がいっぱいいる」ということではなく、デジタルに対するセンス(感覚)の問題である。住民票をデジタル化することを考えずに、紙の住民票をカードでコンビニのコピー機で取得できるようになって便利!と言ってしまうようなセンスである。
 
 パソコンやスマホを使いこなせるかこなせないか、などというのは些細な問題である。別にそんなものは使いたくない人は使わなければいい。だが、国としてあらゆる手続きをオンラインでできる環境というのは整えておかなければならない。そしてそういう声を上げる人の少なさに、私はこの国の人々の「デジタル音痴っぷり」を感じるのである。
 

「確定申告」という謎の行事

 
 確定申告。
 
 この言葉を聞くと憂鬱な気分になる人も多いだろう。
 
 私は前から、この「確定申告」という行事の意味がわからない。どういう理由で何のために行われるのか。なぜこんなにもたくさんの国民が確定申告に頭を悩ませているのか。
 
「複雑すぎて自分ではとても解らないから、税務署に行ったら、税理士さんが解りやすく書き方を教えてくれた」。
 
 そういう話をよく聞く。だが、なぜ国民が計算しなければならないのか。
 
 国民一人一人の納税額は税務署(国税局)側が計算するべきではないのか。マイナンバーを使えばわかるはずである。
 
 銀行にもマイナンバーを届け出ている。証券会社にも届け出ている。会社にも届け出ている。扶養家族の情報も住民票から分かる。税務署はマイナンバー連携を使って市役所から住民情報を教えてもらうことで、家族構成や世帯主も把握することができる。これだけのことを把握できて、国民(例えば私)の所得税額がわからない、などということがあるだろうか。
 
 「預金額とか家族構成とかはプライバシーなので、マイナンバーをそういうことに使っちゃいけないんでしょう」と思ってる人がいるかもしれない。
 
 たしかにマイナンバーは利用目的の「3本柱」と言って、「税」「社会保障」「災害対策」の3つ以外の目的で利用してはいけない、という厳しい決まりがあるが、税務署は「税」を取り扱っているので、マイナンバーを使える立場にある。
 
 マイナンバーで、会社の給与も銀行も証券会社も家族構成までもがっちり把握できるのに、どうして納税額が計算できないのか。
 
 基本的な考え方が逆なのである。
 
 納税額は税務署の方で計算する。もし、わからない・不明な点があれば、国民のところに聞きに行けばよい。不明な点がなければ計算し終わったものを国民に通知する。国民はその金額に異議がある場合は税務署に連絡する。異議がなければ「いいよ」のボタンをタップする。そしてその瞬間に銀行口座から税金が引き落とされる。
 
 国民は税務署からスマホに届いた書類にざっと目を通し、「いいよ」をタップする。これだけ。これが納税のあるべき姿ではないのか。どうして国民に複雑な計算をさせ、難解な書類を書かせるのか。
 
 繰り返しになるが、「国民が計算して分からなかったら税務署に聞きに行く」のではなく、「税務署が計算して分からなかったら国民に聞きに行く」のが筋である。
 
 私はもう長年「確定申告」が謎でしかたない。どうして「申告」なのか。冗談ではなく深刻な問題である。
 
 私は(直接の)確定申告をしたことがないので、この分野に詳しい人がいたら「どうして」「何のために」確定申告があるのか教えてほしい。
 
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天皇制という名の皇統ブロックチェーン

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by cvkcvk
 
 天皇制とブロックチェーンはよく似ている。
 
 ブロックチェーンは知ってるけれど天皇制についてはよく知らない、という人のために、今日は天皇制をブロックチェーンに擬えて説明してみようと思う。因みにこの記事で単に「ブロックチェーン」と書いている場合はビットコインブロックチェーンのことを指す。
 

天皇制とブロックチェーン、七つの共通点

 天皇制とブロックチェーンには共通点がある。
 
一、連綿と繋がる長いブロック
二、長いことに価値がある
三、多くのノードによって検証されている
四、初代は不明
五、いざという時のためのサイドチェーンが用意されている
六、ハードフォークの危険を孕む
七、改竄不可能の性格
 
 以下、一つ一つ見ていこう。
 
一、連綿と繫がる悠久のブロック
 ブロックチェーンは今から約10年前の1ブロック目から始まって2ブロック目、3ブロック目…と続き、2019年現在は約600000ブロック目あたりまで連なっている。
 
 天皇制の方は初代神武天皇から続き、現在は126代目まで続いている。
 
二、長いことに価値がある
 ビットコインブロックチェーンが途中で途切れることなく連綿と続いていることに価値があるように、天皇制もまた途中で途切れることなく続いていることに価値がある。
 
 今の時代、ブロックチェーンは幾つもあるが、その中でビットコインが尊ばれる理由に「歴史が長い」ということがある。長いノーダウンタイムが信頼に繫がっている。また分岐が起きたときも長いチェーンの方が正統と見なされる。サトシ・ナカモトは"The longest chain"と書いた。「長い」ということが重要なのである。
 
 天皇がなぜ尊ばれているかというと、その理由は「皇統が長い」ということにある。皇統が長いとはどういうことかというと、「父の父の父の…」という具合にずっと祖先を辿っていくことができるということである。もちろん、天皇ではなくても、一般の人でも「父の父の父」はいるし、10代前の父も100代前の父もいる。でも100代前の「父」がどんな人であったかは証明できない。
 
 天皇家では、それが一本のブロックチェーン上に記録されている。そしてそれは民間人が勝手に作る「家系図」とは違って「改竄不可能」である性質を持つ。たしかに繫がっていることが証明できるからこそ”VALUE”が生まれる。
 
三、多くのノードによって検証されている
 ビットコインは多くのノードによって検証されていることが、その価値を高めることに繫がっている。
 
 皇統もまた多くのノード(国民)によって検証されていると言える。その時代には検証されていなくても、後世の歴史家によって遡って厳しい検証の目にさらされているので、少なくとも他の家系にくらべれば不明な継承は少ないと言える。
 
四、初代が不明
 ビットコインの黎明期が謎に包まれているように、天皇制の黎明期もまた謎に包まれている。
 
 ビットコインのすべてのブロックは一つ前のブロックを参照している。すべてのブロックがその正しさを一個前のブロックの正しさに依拠している。だが、いちばん最初の0ブロック目にあたるジェネシスブロックだけには一個前のブロックが存在しない。ジェネシスブロックの前には創造者(サトシ・ナカモト)しか無い。
 
 天皇制も現在の天皇からずっと祖先を辿っていくと初代神武天皇につきあたる。では、その神武天皇は誰から生まれたのか。神武天皇は天上の神から生まれたことになっている。すべての天皇は先代の天皇の子孫なのに、神武天皇だけが先代の天皇がいない。天上の神の世界から、いきなり地上界に人間の形をもって生まれた。
 
 ビットコインも初期の頃は謎に包まれた部分が多い。ビットコインが誕生したのは2009年だが、その頃はまだ世界でもごく限られた人しかビットコインの存在を知らなかった。天皇も初代だけではなく、25代目くらいまでは実在したのかどうかすらよく分かっていない霧のようなベールに包まれている。
 
五、世襲親王家というサイドチェーン
 ビットコインブロックチェーンには、RootstockやLiquidのようなサイドチェーンがある。これらのサイドチェーンは主にメインチェーンの機能拡張を担うが、同時にメインチェーンを補佐する役割もある。
 
 皇統もチェーンが一本だけという状態は不安定である。そこで、室町時代後花園天皇世襲親王家というサイドチェーンを作った。江戸初期に皇位の継承が不安定になった時も、当代随一の学者、新井白石閑院宮家というサイドチェーンをつくった。
 
 皇統の血(ハッシュ値)を引くもう一本のチェーンを側に走らせておくことによって、メインチェーンが新規ブロック生成に失敗した場合はサイドチェーンである閑院宮家から皇嗣を立てることができるようにした。世襲親王家はメインチェーン(天皇家)にもしものことがあった場合に皇統ブロックチェーンの継続を担う役割があった。
 
六、ハードフォークの危険を孕む
 ブロックチェーンは分岐が起こる。正統でないチェーンに接続したブロックの取り引きは「なかったこと」になる。チェーンが2本存在すると「二重支払い」と呼ばれる問題が起きる。皇統ブロックチェーンも2本存在すると、例えば詔勅や勅許が二つ存在することになってしまう。
 
 分岐の中でも怖ろしいのは「ハードフォーク」と呼ばれる固い分岐である。
 
 いちばん有名なハードフォークは2017年に起きたものだろう。この時分岐したチェーンは「ビットコイン」を名乗らず、「ビットコインキャッシュ」という別名を名乗ることになった。
 
 皇統もまたハードフォークの危険が常に付き纏う。こちらのいちばん有名な分岐は15世紀に起こった「南北朝」である。多くの争いと悲劇を生んだ。
 
七、改竄不可能の性格を持つ
 多数の目(ノード)により、厳しい検証の目に晒されているので、皇統を改竄することは実質不可能である。過去、「熊沢天皇」のようにブロックチェーン家系図)を改竄して正統を主張する者が現れたことがあったが相手にされなかった。また、「父の父の父の」という具合に遡って天皇家よりも長い家系図を提出して証明できれば尊ばれるかもしれないが、ビットコインのメインチェーンより長いチェーンをつくるのが不可能なのと同じように、少なくとも日本では天皇家よりも長い家系図を証明するのは不可能である。
 

マイニングと側室制度、皇統の血とハッシュ値

 天皇制は、今後どこまで安定して続いていくだろうか。
 
 ビットコインは一見安定しているようにも見えるが、その価値はまだまだ乱高下していて不安定である。
 
 天皇制は目下のところ、後継者不足という問題に直面している。新しいブロックが生成されにくくなっている。
 
 明治天皇以前の時代には不測の事態に備えてたくさんのマイナーがいた。これを「側室制度」と言う。だが大正天皇の代に側室制度は事実上廃止され、一人のマイナーが新たなブロックの生成という重責を担うようになった。
 
 皇統ブロックチェーンにおいてはハッシュ値Y染色体である。しかし「Y染色体」という言い方はいかにも現代的な言い方であって、要は男系で繋がって来た。なので男系の出自が天皇と繋がっていれば、仲継ぎ的に女性の天皇が立てられることもあった。ただし、江戸時代の後桜町天皇以来、最近200年以上、女性の天皇は出ていない。 
 

男性永世皇族制の問題

 明治以降に皇統ブロックチェーンの安定性を高めるために編み出されたのが、男性皇族の永世皇族制である。
 
 しかし、このような仕組みは明治以前には無く、ビットコインブロックチェーンにも無い。ビットコインブロックチェーンにおいては正しいチェーンに繋がっていないブロックは「無かった」ことになる。
 
 明治以前の皇統ブロックチェーンにおいても、「正しい」ブロックである皇嗣の男性以外の「その他の男性」は出家をするなどして皇室から離れるのが一般的だった。
 
 現代のこの男性永世皇族制は、マイナー(側室)の廃止による皇位継承の不安定さを解消する役割を持っている。だが一方で、「男系」を基本プロトコルとしている皇統ブロックチェーンにおいて、男性皇族がたくさんいることは、常にハードフォークの危険を孕むことになる。今の時代は偶然、皇族の中に圧倒的に女性が多く男性が少ない状況にあるため、このハードフォークの問題は認識されていない。
 

天皇制とブロックチェーンはお互いに学び合える

 私は以前からずっと天皇制とブロックチェーンは似ていると思っていた。どちらもブロックが連綿と連なる一本の鎖である。その鎖が「長い」ということに価値を置いている。南北朝は一種のハードフォーク事件である。ブロックチェーンにおいてはreorg(リオルグ:チェーンの再編成)によってハードフォークが防がれているが、南北朝の問題も後亀山天皇北朝へのreorgを行うことで解決している。(ただしブロックチェーンのreorgと違って、南朝北朝に帰一したものの、ブロックとしては南朝チェーンが番号を採られている。)
 
 暗号資産界隈の一部には今、Proof of WorkからProof of Stakeへの流れがある。これは側室制度廃止の流れだ。側室制度がなくなった時にどうやって皇位継承の安定性を維持し続けるのか。皇統ブロックチェーンにおいてはそこで出した答えが男性永世皇族制だったが、これは今はたまたま男性皇族よりも女性皇族の方が圧倒的に多いので問題として顕在化していないが、潜在的にはハードフォークの危険を招く。
 
 暗号資産の方のブロックチェーンは、スケーリング問題やガバナンス問題に苦しんでいる。ガバナンス問題はコンセンサスの問題だ。皇統ブロックチェーンにおいては長年、合議制で解決してきた。合議に参加するのは一部の有力貴族や将軍などの支配者層であり、これは中央集権的である。一方、暗号資産のブロックチェーンの多くは非中央集権的であり、DPoS(Delegated Proof of Stake)のような形を取るところもある。ただし皇統ブロックチェーンは1945年以降、より”Decentralized”な形を取るようになった。
 
 こうして比較してみると、ビットコインがそのブロックチェーンの安定性向上のために今までやってきた施策の多くは、過去に天皇制維持のために行われてきた施策に似ていることがわかる。例えば、ビットコイン開発陣が考え出したサイドチェーンというアイデアは今から300年以上前に新井白石が皇統の安定性のために考え出した閑院宮家のアイデアにそっくりだ。天皇制とビットコインにはブロックチェーン構造にとても似たところがあるからだ。
 
 ということは、ブロックチェーンが今後もっと安定性を高めていくためのヒントが天皇制の中にきっとある。ブロックチェーンが今後出遇うであろう問題も、その解決方法も、千数百年の歴史を持つ天皇制の歴史の中に見出すことができるだろう。南北朝の失敗に学ぶことで、ビットコインキャッシュビットコインSVのような悲劇(正統性論争)を防ぐことができる。一方、今、男子が極端に少なく皇位継承の安定性が危ぶまれている皇室においても、その解決方法のヒントをブロックチェーンに求めることができる。例えばビットコインで今までたくさん出されてきたBIP(Bitcoin Improvement Proposals)の中に良いアイデアが見つかるかもしれない。
 
 天皇制とビットコインはお互いにお互いを参考にし学ぶことで、そのブロックチェーンをよりたしかなものにしていくことができる。
 
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東京一極集中是正に必要な“気持ち”

 

東京一極集中の弊害

 東京一極集中の弊害が叫ばれて久しい。
 
 地方が疲弊し、少子化、過疎化、限界集落という言葉が言われるようになり、多くの地方自治体は財政難に陥っている。「効率化」の名の下に、スーパーマーケット、銀行が撤退し、生活はますます困難になり、小さな町では病院までもがなくなり地域医療が崩壊しているところもある。    
 
 疲弊しているのは地方ばかりではない。東京もまた疲弊している。全国的に少子化で人口が減少しているにもかかわらず、超満員電車も渋滞も行列も一向になくならない。ヒートアイランド現象で東京の夏は夜になっても気温が下がらず地獄のような熱帯夜が続く。
 
 東京一極集中の問題が指摘されたのはここ数年の話ではなく、もう何十年も前からなのに、一向に改善される気配がない。
 
 なぜ東京一極集中は是正されないのか。
 
 そこには人々のある“気持ち”が関係していると思う。
 

「東京ばかり」に不満な人たち

「なんでもかんでも東京ばっかり」
 
 そんな不満の声をよくリアルでもネット上でも聞く。
 
「テレビ見ても、おいしいお店の紹介とかどうせ東京のお店ばっかり」
 
 私は初めて地方の人の口からこれを聞いた時は驚いた。テレビで東京の店が紹介されているのは自分が東京でテレビを見ているからだと思っていた。地方でも同じように東京の店が紹介されているとは思わなかった。
 
「ネットを見れば、Suicaは便利か不便かとか、地方の人間には関係のない話でばかり盛り上がってる」
 
「テレビもネットも諦めて外に出れば、コンサートも面白そうなイベントも全部東京でやっている」
 
「東京という一つのローカルの話を全国区のように話すな」
 
 そういう“怨嗟”の声をたくさん聞く。
 
 こういう声が多ければ、当然、東京一極集中は是正の方向に向かうと思われる。ところがそうはなっていない。なぜか。それは地方の人々の心の中に、これとは相反するもう一つの“気持ち”があるからだ。
 

東京に誇りを感じる人たち

 地方の人たちは「東京ばっかり」と憎む気持ちと同時に東京を誇りに思う気持ちを持っている。
 
 例えば、新宿駅は世界一の駅、ということが話題になる時。新宿駅の凄さに対する海外の人々の反応を見ている時。この時は地方人として東京の新宿駅の話をしているのではなく、日本人として話をしている。
 
「世界のみなさん、どうです?我が日本の駅はすごいでしょう」
 
 そういう気持ちで話題にしている。
 
 私の国の首都としての東京。その東京に偉大であってほしいという気持ちがある。縮小してほしくない。我らの東京がニューヨークやロンドンのような世界の大都市と肩を並べていることを誇らしく思う気持ちがある。
 
 日本という国の首都としては、他の国の都市に負けないでほしいのだ。北京にもソウルにもシンガポールにも負けてほしくない、そういう気持ちがある。
 

東京一極集中の是正に向けて 

 こうした“気持ち”が東京一極集中を支えている。「テレビもネットもリアルも東京ばかりだ」という不満を抱えつつ、一方で世界の都市との比較という点において、東京には大都市であってほしいと願う。
 
 このような“気持ち”を持っている人が多数派を占めているかぎり、東京一極集中は是正されない。
 
 大都市東京を誇らしく思う気持ち、世界に対しての見栄の気持ちを捨て去らなければならない。
 
 先ずはここから始めなければならない。そうしないと、いくら地方の魅力を訴えても、依然として人々は東京に吸い寄せられ、テレビでもネットでも相変わらず東京の話ばかりしている光景がこれからも続くだろう。
 
 東京一極集中の是正は喫緊の課題である。例えばこれだけ自然災害の多い日本において東京が比較的災いを免れているのは単なる幸運の偶然であって、東京がいつ大きな災禍に見舞われてもおかしくない。その時、「東京が潰滅したら日本は終わり」というようでは国造りとして明らかに駄目であろう。また、今こうしているうちにも地方の貴重な伝統文化は次々と失われていっている。後になってその価値に気づいて「あれはもったいなかったね」と言っても、もう取り返しがつかない。抑々、地方の人口が減るということはそこに貴重な文化があることを知っている人間が少なくなる、ということだ。
 
 効率や便利さばかり求める国なら要らない。歴史や伝統を大切にしない国は衰退するのみである。今からでも。東京一極集中の是正を。
 
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なぜリアルタイム払いが重要か

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 私はクレジットカードやプリペイドカードをほとんど使ったことがない。
 
 使うのは現金かデビットカードである。なぜクレジットカードやプリペイドカードを使わないのか。その理由を今日は書こうと思う。
 

時間軸から見る3つの決済方法

 
 決済方法は、時間の観点から大きく三つに別れる。すなわち、
 
1.プリペイド(前払い)
2.リアルタイム払い(即時払い)
3.ポストペイ(後払い)
 
の三つである。
 
 それぞれの払い方の代表的なものには次のようなものがある。
 
 
2.リアルタイム払い
現金
 
3.ポストペイ
クレジットカード
 
 私がプリペイドやポストペイを使わないのは、それが基本的に「おかしい」と思っているからである。
 
 八百屋に行って、1個200円の林檎を買う。私はその場で店主に200円を渡す。これだけでいい。その200円を前払いしたり後払いしたりする必要はない。
 

後払いはなぜ駄目か

 
 なぜわざわざ来月に払うのか。今月はお金がないから?今、払えないような金額の買い物をするべきではないだろう。
 
 私は店主に200円を渡し、店主は私に林檎を渡す。このシンプルなやり取りになぜ第三者が仲介するのか。
 
 クレジットカード会社は「あなたの代わりに立て替えといてあげますよ」と言う。これは、支払いに困っている私を見かねて優しい手を差し伸べているわけではない。クレジットカード会社は儲かっているのである(当たり前だが)。
 
 クレジットカードを使う人はそのメリットとして「多額の現金を持ち歩かなくていい」と言う。だが、それはデビットカード電子マネーでも持ち歩かなくて済むわけだろう。
 
 また、もう一つのメリットとして「ポイントが貯まる」ことを挙げる人は多い。だが、そうしたお金(ポイント)がどこからどうやって捻出されているのか、よくよく考えてみることだ。私と八百屋の間にクレジットカード会社が入ってくる。クレジットカード会社は「いまどきカードが使えない店は客から逃げられますよ」と言う。店は手数料を払うことになる。その手数料分を値上げするだろう。結局は消費者に跳ね返ってくる。
 

前払いはなぜ駄目か

 
 では、後払いではなく前払いだったら良いのか?
 
 前払いも駄目である。前払いの「悪」についてはテレホンカードの話をすれば事足りるだろう。
 
 いま誰も財布の中にテレホンカードを持っていない。でも家にはテレホンカードが眠っている。結局使わず換金もしていないテレホンカードが。「残高が残っていると言ってもたかだか100円くらいですから」。そう言う人が日本に10人に1人いたとしよう。すると、100円×1000万人で、NTTは10億円も儲かっていることになる。
 
「いまどきまだ小銭を積み重ねて電話をしているんですか?今はもうテレホンカードの時代ですよ」
 
 そんな言葉に騙されてかつて多くの日本人がテレホンカードを買い、「先に」NTTにお金を払ったが、世の中は公衆電話から携帯電話の時代に変わり、持っていたテレホンカードは使う機会を失った。
 
 それでもなんとなく、災害の時とか、いざという時に使うことがあるかもしれない、そういう思いでテレホンカードを換金せずに持ち続けている。
 
 先にお金だけもらっておいて、実際の電話は掛けないのだから、NTTはぼろ儲けである。
 
 今のSuicananaco楽天EdyWAONにしてもそうだが、プリペイドの「悪」については、このテレホンカードの例を挙げるだけで十分であろう。人々は「プリペイドはチャージするのが面倒」と言いながら、同じ口で「Suicaは最強」と言っている。この場合の「Suica最強」は一手間かかるQRコード決済と比べてタッチ一瞬で済む便利さを言っているのだろうが、プリペイドという時点で「悪」で時代遅れであることに気づくべきである。
 

時間差はトリック

 
 リアルタイムに払わせずに前払いや後払い等の時間差を生じさせるのは、すべてそこから新たな利益を生み出すためである。目先の小さな「便利」や「お得」にしか目が行っていない人は、大きな視点では搾取されている構造に気づかなければいけない。時間差があると複雑さが生まれる。そこに付けいる隙がある。複雑すぎて人々はカラクリが分からない。自分が得しているのか損しているのかも分からない。なんとなくポイントが貯まるからお得なんじゃないか、と思っている。
 
 時間差のトリックをこの世から無くしていくためには、あらゆることをリアルタイムに近づけ、物事の関係性をシンプルにしていくことだ。これはできないことではない。
 
 
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